消毒薬の強く匂う廊下を、高都匡は足早に歩いていた。端正な、人目を惹く顔立ちに、すれ違う何人もが振り返り、ため息とも感嘆の声ともつかぬものを洩らしていく。だがそのまなざしに、不審の色はなかった。花束を抱えた制服姿の若者など、この場所この時間、珍しいものではない。
入り口の脇のプレートに目当ての名を見つける。控えめなノックに、応答はなかった。扉の前で匡は思案するように指先をめぐらせて、それからそっと扉を開いた。
広くはない個室に、眠る女はひとりだった。
「志乃」
枕もとに歩み寄り、低く名を呼ぶ。女のまつげが震える。
ゆっくりと目を開いた女が、嬉しそうに微笑んだ。目尻に刻まれた皺が、いっそう深くなった。
「まあ……。匡、……来てくれたのねえ」
「約束だっただろう」
笑みを返しながら、匡は身体を起こそうとする女を支える。骨の浮いた身体は軽かったが、筋ばった手は震えて力が入りにくいようだった。
「ふふ。……ずいぶんと、おばあちゃんになってしまったわねえ。私」
匡の視線を辿った老女――志乃は、自らの手を見つめながらそう言うと小さく笑った。その姿が、かつての少女の面影と重なる。
「まさか、こんな歳になるまであなたが来てくれないなんて、思ってはいなかったわ」
でも、と続け、彼女は穏やかなまなざしを、孫ほどに歳の離れて見える少年へと向けた。
「――終わりなのね?」
「ああ」
「そう……」
「幸せだったかい」
唐突に、匡が問うた。
「幸せだったわ」
老女は微笑んで、枕元に置いた写真立てを指差す。面差しの良く似た中年の女と、その夫らしき男に挟まれた写真。セーラー服を着た少女と寄り添って笑っている写真。
「孫よ。可愛いでしょう。今年中学に入ったわ」
「うん」
頷いて、匡は細い身体をかがめた。白い犬歯が、音も立てずに乾いた皮膚に突き立った。
震える手が、頬に触れた黒髪を、いとおしげにくしけずる。
「待たせて……ごめんなさいね、匡……」
力が失われていく身体を、匡は元どおりにベッドへと横たえた。その脇に、携えてきた花束を置いてやる。
「――ありがとう、志乃」
囁いてこめかみに口づけた匡に、老女はうっとりと微笑んだ。
「いいえ……私のほうが、ありがとう、よ……。逢えてよかったわ……うれしい……」
ひどく大儀そうに瞬きをして、わずかに首を傾ける。それすらも今の彼女には、大変な労力を要することのようだった。
「まだ、……探して、いる、の……?」
「ああ」
「そう……あなたの幸運を、祈って……いる、わ」
「ありがとう」
もう一度、今度は独白のように呟いて、匡は老女のすっかり白くなった髪を撫でた。
そして踵を返す。ノブに手をかけて、わずかにためらい、けれども結局振り返らぬままに、無機質な病室をあとにした。
「……匡」
人気のなくなった病室で、今しがた去った少年の名を、志乃は小さく呟いた。
抱きしめられるほど近くに置かれた花に目を留めて、ふと苦く笑う。
「最後まで、残酷なのねえ……」
大輪の白百合。この花をもらってみたいと言った自分の言葉を、彼は憶えていた。ならば花束を抱えて、迎えに行くよと笑ったのだ。
なぜ欲しがったか、判らぬはずもないだろうに。
「匡……」
もういちど呼ぶ。戻ってくるはずがないのは、知っている。それでも、呼ぶくらいは許されるだろう。
(――愛していたわ)
その言葉だけは唇に乗せない。墓の下まで持っていくのだと、決めていた。
すれ違ったばかりの、名門校の制服をぴしりと着こなした文句なしの美形に目を奪われていた少女は、母親の呼ぶ声にあわてて歩みを速めた。今日は遅くなってしまった。面会時間の残りは少ない。
走らない程度の早足で病室に顔を覗かせるのと、母親の短い悲鳴を聞いたのが同時だった。
「伯母さん……っ、志乃伯母さん!」
「おばあちゃん!?」
ただならぬ様子に駆け寄って、病人の顔を覗き込む。
生まれる前に亡くなった祖母の代わりに可愛がってくれた優しい大伯母は、まるで少女のように微笑んで、穏やかに眠っているように見えた。
――それが、生涯を独身で通した大伯母、志乃の、最後に残した笑顔になった。
傍らで大輪のカサブランカが、強い芳香を放っていた。
目の前の自動ドアが左右に開いてゆくのを見るとはなしに眺めながら、ふと、高都匡は右肩越しに天井を振り仰いだ。
写真の中より少し髪の伸びていた少女とその母親が、今頃、動かなくなった志乃を見つけているころだろう。
「変わらないな。志乃」
笑い方も。いまだ口中に残る、甘く香りたつ血の味も。そして意地っ張りなところも、昔と同じだった。
腕に掛けていた、軽いコートをふわりと羽織る。11月の夕暮れは冷え込むが、大気は澄んでいて気持ちがいい。
少し歩きたい気分だった。来るときにはタクシーを使った道を、匡は迷いのない足取りでたどりはじめた。
(愛していたわ)
ふわりとそんな声が、耳元に舞い降りてきた。
駅への階段を登りながら、匡は唇の端を少しだけ持ち上げた。
今しがた、血を――命の糧を奪ったばかりの老女の、記憶と想いが流れ込んでくる。
久しぶりに見つけた、匡の身体に適合する血を持つ人間は、身体の弱い少女だった。二十歳まで生きられないらしいと笑った。血液を介して生気を奪う、その行為自体はふつう人の命までをも奪うものではないが、彼女の弱い心臓ならば簡単に止めてしまっただろう。
(あなたになにもあげられないの?)
そういって泣いた少女のために交わした、気まぐれな約定だった。生き延びる力をほんの少し分ける、その代わりに、彼女の命が尽きる日には、その最後の灯を貰い受けると。
「本当に、気まぐれだったんだよ――志乃」
愛の言葉など与えなかった。
恋のしるしなど与えなかった。
どれほど愛らしく健気な少女も、匡のただひとりの乙女ではないからだ。
意地っ張りな彼女は、知っていただろうか。高都の吸血鬼が、血の持ち主の記憶を読むことを。きっと知るまい。あんな嘘をついた彼女だ。知れば、血を与えることを拒んだだろう。
(愛していたわ)
まとわりつく想いは、けれども、不思議なほどに穏やかだ。
(幸せだったわ)
だから、それだけは嘘ではなかったのだろう。
耳元のリフレインを、珍しく振り捨てることもないままに、改札を抜け電光掲示を仰ぐ。竜神の町へと戻る電車は、あと5分ほどで入ってくるようだった。