ああ、あなた。どこにいるの。あなた。
きみはどこにいる。どこへ行った。どこへも行けるはずなど。
あなた。あなた。あなたがいない。ここは淋しすぎる。あなた。
どこだ。どこへ行った。きみの声がきこえない。きみの歌が。
返事をして。私にこたえて。あなた。
呼んでくれ、私を。私の名を。
――ああ
ああ――
風が、吹くのに!
「てえぃッ!」
掛け声と同時に木刀が空を薙いだ。かまいたちを生む勢いで風を切り裂いた木の刀は、しかし目標を捉えることなく空振りに終わる。
ちっと舌打ちして、瀬能朔は斜め上を睨みつけた。助走もつけずに跳躍した細い肢体が、空中で器用に転回して朔の背後を取る。たん、と木張りの床を蹴る音がひとつ。疾風の速度で距離を詰められる。振り返りざまに朔は上段に構えた木刀を、力の限り振り下ろした。
「おい、瀬能!」
止める声は一呼吸遅かった。しまったと思っても勢いのついた両手は止まらない。
(わりぃ、まりあッ)
心の中で詫びると同時、がつんと両腕に衝撃が来た。それは予想通りだったが、覚悟していた破壊音が聞こえないのがおかしい。見れば華麗に避けてみせるものと思われた敵――高都匡が、白刃取りの要領で眉間を狙った一撃を見事に受け止めていた。
「……まったく」
朔の手中から木刀を引き抜きながら、匡は苦笑まじりのため息をつく。
「つくづく学習能力というものがないな、朔は」
「…………わーるかったな。とっくに知ってんだろー?」
我ながら情けないと思っているから、憎まれ口にも力がこもらない。なにせ、ただの稽古にヒートアップして、床板を割りそうになったのはこれでもう七度目になる。ついでに言うと未遂で済まなかったものもあって、真田家私有の武道場の床と壁には二つほど、真新しい修繕の跡があった。
「さすがにこれ以上穴を開けるのは勘弁してくれ。祖父さまの堪忍袋の尾がそろそろ切れる」
袴姿の真田麻里亜にまで言い添えられて、瀬能朔はがっくりとうなだれた。
「ここで稽古やんのやめよっかなー……」
なんだかそのほうが多方面にプラスのような気がする。思わずぼやくと、麻里亜が慌てたように言い足した。
「悪い、そういうつもりじゃない。痛むのは当たり前の場所だし。瀬能たちと稽古できると私もいろいろ学べるから有難い」
「……そか?」
「ああ」
「そりゃうれしーな」
へらり、と笑って朔は身体を起こす。
「まーなんだかんだ言っても匡が止めてくれっからな、大丈夫ッしょ」
「そういつまでも俺に頼ってるんじゃ進歩がないよ、朔。大体、俺が止めたらそこで立ち合いも終わってしまうだろう?」
「あーまーそーなんだけどさー」
「……だから」
匡はひらりと片手を振った。
「壊したあとでね、こんな風に直してしまうほうが早いよ」
きらきらと青い光のかけらが床と壁の修繕跡を包み、一瞬ののちにはまるで継ぎ目のない、一度として割れたことのなさそうな木目がそこに現出していた。
「…………げっ」
なんてこったと瀬能朔は呻いて天を仰ぎ、真田麻里亜はため息をつく気も起こらずに苦笑した。
こういう奴なのだ、この性格の悪い魔法使いは。
「おまえな、出来んだったらさっさとやれっての」
「それじゃ朔が改善してくれないと思ってね。でもどっちみち学習しないみたいだから」
肩をすくめて匡は笑うと、胸まである細い黒髪をきちりと結いなおす。
「さて、そういうわけで遠慮はなしだ。今度は二人同時だったね。――かかっておいで」
黒曜の瞳が、青い炎の名残を映してきらめいた。
ふう、と息をついて、真田麻里亜は額に滲んだ汗を拭った。
息があがってきている。男二人がなんともなさそうなのが少しばかり悔しいが、仕方がない。男女の差ばかりでなく、基礎体力が格段に違うのだ。
火花を散らして正面から三合、匡と打ち合った朔が追撃をかわして退却してきた。入れ代わりに前に出る麻里亜の耳に、すれ違いざまに囁いていく。
「次、右な」
人並みはずれて五感の優れた高都匡に聞こえていないとも思えなかったが、麻里亜は頷くと手の中で木刀を握りなおした。右に一歩大きく踏み込む。中段から横薙ぎに胴を狙う、そう見せかけて鋭角に方向転換をすると左の懐に飛び込んだ。空いた右には背後から朔が、低い位置の突きを放り込む。
「おやおや、またコンビプレイの腕を上げたね」
緊張感のない台詞を吐きながら、匡はけれん味たっぷりに伸身の宙返りで避けてみせた。着地時に両手をあげて見せるサービスぶりだ。そのまま手首で木刀を回して、着地を狙った朔の一撃を弾き飛ばす。小気味良い音がして、朔の木刀が武道場の隅にからからと転がった。
「あーやられたッ」
悔しげに唇を尖らせながら、朔はホールドアップで降参の意を示す。どうする、と匡に目線で問われ、麻里亜もふっと肩の力を抜くと開いた右手を肩の高さに上げて見せた。
「いつもながら、完敗だ」
「キャリアが違いますから。簡単に抜かされるわけにはいかないさ」
つい一瞬前まで有段者二名を相手にしていたとは思えぬ涼しい顔で、匡はさらりと返す。実際見事なものだった。最も得意とする精霊魔術も、文字通り彼の「切り札」であるカードもすべて封じてもなお、二人ぶんの攻撃をかすり傷すら負わずに避けきるその技量。先刻の朔との立ち合いに至っては、木刀を携える朔に対して丸腰であしらってのけたのだ。
「でも麻里亜もさすがだよ。この半月でずいぶん伸びた。連携も良くなったし」
「二人のおかげだ。祖父さまとではさすがに、こういう稽古は出来ないから」
「そりゃ重畳」
嬉しそうに朔が笑って、腰に手を当てるとうーんと背中を反らせた。
「今日はこのへんか。お疲れさん」
「はい、お疲れさま」
「お疲れさまでした」
律儀に深々と頭を下げると、麻里亜は髪を束ねていた紐をほどく。ばさばさと頭を振ると、うまれつき色素の薄い髪が肩を覆った。黒髪の美しい母にも、褐色の髪だった父にも全く似ていないこの茶色の髪を、麻里亜はあまり好いてはいない。見事につややかな黒髪の持ち主である美貌の魔法使いを、少しばかり羨望を込めて見やったところで、その当人が思い出したように麻里亜のほうをむいた。
「そうそう、言い忘れてたけれどね。今日からしばらく留守にするから」
「――は?」
問い返したのは麻里亜ではなく、匡の相棒を自認する瀬能朔である。
「聞いてねーぞ」
「だから今。ここで言っておけば一度で済むだろう? 出かけるのは俺一人だから、朔は別にいつもどおりだよ」
「ちょっと待てい。俺のメシ。どーすんだ」
「それくらいどうにでもなるだろ? 買っても、食べに行ってもいいし。この際少々浪費しても許すよ。……ああ、それとも」
悪戯っぽく笑んで匡が、目線で麻里亜を示した。
「作ってもらったらどうだい」
「……え?」
ぱちりと麻里亜は瞬きをして、朔を見上げる。朔は困ったように眉を下げて見返してきた。
「まあ、そういことで。約束があるから先に行くよ。じゃあ朔、留守番よろしく」
ひらりとまた手を振って、匡はすたすたと立ち去った。肝心の用事の内容を聞き忘れたと二人が気づいたのは、もうすっかり匡の姿が見えなくなって以後のことだった。