Century20 CARD TWO ―聖女の名前―

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ACT 3

 りい――……ん。
  たとえば教会のような、反響性の高い建物の中でハンドベルを一振りすれば、こんな音になるだろうか。
 りい――――……ん。
 一定の間隔一定の音程で繰り返されるそれの源は、牙月と名づけられた一振りの日本刀。沈みきらない太陽に鞘から放たれた刀身が照らされて赤く輝く。
 これは血を吸わないものだ。
 人を斬るためのものではない。妖を――赤い血を持たないものを塵に還すためのものだ。
 そう、真田麻里亜は自分に言い聞かせる。右手に抜き身のそれを提げ、鍛えられた足で路地を疾走しながら、街を染める茜色から強いて意識を逸らした。
 音は鳴り止まない。どころか次第に高さを増して、屠るべき相手が近いことを教えてくれている。
「まりあ」
 同じ速度で隣を走っていた人物が、運動量の激しさとは不釣合いな軽い声音で名を呼んできた。
「どっち行けばいい?」
 声のほうへ一瞬視線を流して、麻里亜はちらりと笑った。大丈夫だ、と心中で呟いた。
 大丈夫だ。一人ではないのだから。
「左へまわってくれ」
「りょーかい。先行くぜ」
 とん、と麻里亜の肩を指先で叩くのを合図のようにして、瀬能朔は走る速度を上げた。背中が見る間に遠ざかってひとつ先の角で消える。
 あいかわらず、冗談のようなスピードだと半分呆れながら、朔が曲がった角をまっすぐ通り過ぎて、ふたつ目の交差点で左に折れる。
 牙月がひときわ高く啼いた。
「……そこまでだ」
 乱れた息を抑えての宣告にそれは振り返る。すでに人の姿はしていなかった。――ありがたいことに。曲がった背中、アンバランスに長く大きい両腕、だらりと垂れた舌。異様に光る目がぎょろりと麻里亜を睨み、そして次の瞬間、それは高く叫んで地を蹴った。
 眼前に迫る異形を麻里亜は牙月を正面に構えて迎えうつ。同時に呼んだ。
「瀬能!」
「あいよッ」
 声と同時に赤い光が稲妻のように天から地に走った。
 頭蓋を貫かれた異形は表情を変える暇もなくアスファルトに崩れる。それにひと呼吸遅れて長身の影が身軽に着地した。
「お疲れさん」
 赤光をするりと手のひらに戻して、瀬能朔が笑いかける。そちらこそ、と返しながら麻里亜は先刻路上に投げた鞘を拾って、白刃を収めた。
「おかげでずいぶん楽だった。ありがとう」
「いんや、たいしたことしてねーし。それより改めてまりあのこと尊敬したぜ、俺。毎回このおっかけっこだろ?」
「慣れてる。もともと、私はこれしか知らないから」
 麻里亜は肩をすくめる。牙月で敵の位置を知り、足を使って追い詰める、それが真田の護り役の流儀だ。
「まずは足と心肺機能、それから耳、最後に剣だとじいさまに言われた。ただびとの身にできることなどその程度だから、それを徹底的に磨けと」
「ほー」
「思えばあれは、高都を意識した台詞かな。あれを知ってしまうと……、確かに少し、複雑だ」
 いまここにはいない人物を思い浮かべて、麻里亜は苦笑した。
「あれは反則技の域だからなー」
 瀬能朔もまたしみじみと頷いている。
 今日の捕り物は、祖父に習ったとおりのやり方だ。運動能力で麻里亜に優る朔が加わったぶん、格段に楽ではあったが、朔は魔物の位置を知る手段を持たない。牙月の声を聴き、動き回って追い詰めるという基本的な方針に変わりはない。
 高都匡が「魔法」と呼ぶ圧倒的な力は、まったく違うアプローチを可能にするものだ。近づく前から相手の位置を読み、結界で狭い区域に封じ込めてしまう。自分に触れさせることなど一切なく、指先の動きひとつで、敵を消滅させることすらやってのける。
「……悔しくはないのか?」
 気がつくと、麻里亜はそう問いかけていた。問うて、答えが返る前に言葉を継いだ。
「私は、……正直、悔しい。あれほどの力が私にあれば、もっと守れるものがあるのにと、どうしても思ってしまう。羨んでいるし嫉妬している。高都だけじゃない、瀬能にもだ」
「まりあ」
「醜い感情だ。情けないな」
「んなこた、ないだろ。判るよ。まりあが悔しいのは、強くなりたいからだろ」
 眼を合わせた朔の顔から、次の一瞬すとんと笑みが消えた。恐ろしいほどに真面目な顔で長身の少年は言った。
「俺もさ。すんっっげー悔しいぜ」
「――――」
「つっても、まりあとはちょっと違うんだけどな。俺の実力じゃあいつが殺せない。それが悔しい」
 相棒を語るにはいささか物騒な表現だったが、判るような気がした。いつかの瀬能朔の台詞を、麻里亜は思い出す。
(俺がちゃんと殺してやる)
(幻覚なんかに頼んなくても俺が、この手で。――なあ、死にたいか?)
 ――その時、その光剣に貫かれて、その腕に抱かれて、息絶えることをほんの一瞬、夢見た。
 逃げ出したくても、麻里亜に逃げる場所はなかった。死ぬことなど無論許されてなどいなかった。課せられたものはそれほどに重い。
 瀬能朔は優しい。逃げられない麻里亜に、逃げる道を示してくれて、その上でそれでも生きていてほしいと言ったのだ。
「高都は――」
 言いかけて飲み込んだ台詞は、朔にはちゃんと伝わったようだった。
「あいつはさ、自分の口から死にたいなんて言ったことは一度もねえの。死ぬわけにはいかないとか、生きる義務があるとかは何度か聞いてっけど」
「生きる義務、が?」
「ああ。あいつの親父さんの台詞――らしい。昔のことあんま話さない奴だから詳しくは知らねーんだけど、おまえだけはぜってー死ぬなっつって言い含めれられてたみたいだな。勝手なもんだぜ、てめえはさっさと逝きやがったくせに」
 苛立たしげに、がしがしと朔は頭を掻く。
「ま、それだけじゃないっつーか、あいつにはもっとでかい縛りがあって、親父さんのはおまけみたいなもんだけどさ。とにかく、匡は死ぬのを許されてないんだよ。少なくともあいつはそう思ってる。けどな。あいつだってもとは人間だったんだ。それが400年だぜ? とっくに狂っててもおかしくない。少なくとも俺はそう思うね」
「……それで、瀬能は高都を殺してやりたいのか?」
「殺したかねーよ」
 言下に否定されて麻里亜は声を呑んだ。声の調子以上に、その表情に気圧された。乱れた前髪の下から、ぞっとするほど暗い色をした目が麻里亜を射抜く。
「殺したいわけがない。俺にはあいつが要る。――あいつに俺は要らなくても」
「……瀬能」
「でもな。もし、あいつが本気で死にたがったら、殺すのは俺がいい」
「――――」
 かける言葉もなく見上げた麻里亜を、朔は静かに見返した。その目が見ているものが自分ではないことを麻里亜は知っていた。それは彼が相棒と呼ぶ美しい青年の姿なのか、ともに過ごした中で彼が得た――あるいは失った何かなのか。
(かなわないな)
 ごく平静にそんなことを思った。届くはずがないのだ。高都匡が瀬能朔に与えたものを考えれば。
 短くない沈黙が落ちた。
 空気を変えたのは、やはり朔のほうだった。
「ま。いまんとこはあいつが死にたがらないのを祈るぜ。いまの俺じゃどう考えても返り討ちだもんなぁ」
 いつもどおりの声音に戻して、ひょいと肩をすくめる。麻里亜も表情を和らげて応じた。
「私もそう祈っておこう。我侭な言い草だとは思うが、得がたい友人をすぐに失いたくはない」
「ひとつ聞くけど、その友人って、俺も入ってんの?」
「? もちろん」
「彼氏じゃなくて?」
「なっ――」
 顔を真っ赤にして、麻里亜は絶句した。からかうような笑みを浮かべ、朔は長身をかがめてその顔を覗き込んでくる。
「こないだ言ったろ? 瀬能朔は真田麻里亜が好きだからさ。俺としては彼氏に立候補したいんだけどなー」
 んー? と首を傾げる少年の顔には、先刻までの剣呑さはかけらも残されていない。どうしてこう変わり身が早いのだ、と麻里亜は心中で唸った。ただでさえ麻里亜はこの方面の話に免疫がない。突然そんなことを言われても、どう答えていいかわかるはずもなかった。はぐらかす方法などなおのこと知らない。本気で返答に困っていると、その場の雰囲気を一瞬で払拭する音が響き渡った。
 牙月の警告音だ。
 二人の反応は素早かった。麻里亜は一挙動で牙月を抜き払いながら、朔は空中から掴み取るようにして光の剣を出現させながら、互いの背中を庇う位置を取る。
 そこに恐ろしい強さで突風が吹きつけた。いきなり台風の中に投げ出されたような空気の奔流に麻里亜の長い髪が巻き上げられ、制服のスカートがばさばさとはためいた。バランスを崩してよろめいた麻里亜を朔が庇うように片腕で引き寄せる。
 最大級の音量で鳴りつづけているはずの牙月の警告音が、ごうごうと唸る風に遮られてひどく遠い。
「何だ……!?」
「わかんねえ」
 思わず呟いた麻里亜に朔が律儀に答えるのとほぼ同時。

(どこにいる……!)

 はっと麻里亜は顔を上げた。顔をこわばらせた朔と目を合わせて、自分と同じ疑問をそこに見つける。
「いまの、聞こえたか?」
「ああ」
 音、ではない。耳に聞こえる声ではない。頭の中に直接言葉が響くような奇妙な感覚だった。
(きみはどこにいるんだ……! 応えてくれ……!!)
 声は男のものだった。まだ若いように思えた。必死に誰かを呼んでいる。激しい悲嘆と絶望がひしひしと伝わって、聞いているだけで麻里亜の胸は痛んだ。
(応えてくれ、応えてくれ、どこにいる……!)
「てめえはなんだ!」
 中空を睨んで朔が叫んだが、声の主には届かないようだった。声の主が呼びかけているのが朔でも麻里亜でもないのはおそらく間違いない。ちっと舌打ちをして朔は麻里亜の耳元に囁いた。
「とりあえず離脱」
 風はあいかわらず渦巻いているが、それ以上の害はなかった。この声の正体もまったく判らない以上、それが賢明だろう。頷きを返して麻里亜は牙月の切っ先を慎重に鞘に合わせた。なにせこの風だ、手許をあやまって怪我でもしたらたまらない。
 ところが、白銀の輝きを残らず鞘に収めた途端、耳を圧していた音がぴたりと止んだ。頭の中に響き続けていた男の声はおろか、風の唸りも、牙月の鳴る音も、すべてが瞬時にして静寂に取って代わられたのだ。
 もちろん風そのものも止まっている。乱れに乱れた髪がばさりと背中に落ちたのが、一瞬前までの惨状を物語るほとんど唯一の証拠だった。
 麻里亜と朔は顔を見合わせて、同時に呟いた。
「なんだったんだ……?」

*


 こめかみを車窓に当て、頬を左手に預けて、高都匡は黄昏時の街並みが流れていくのを、見るともなしに眺めている。
 車内アナウンスが、まもなく目的の駅に到着することを告げた。
「速くなったものよねえ」
 感心するような声に、匡は視線を車内に戻し、そして――この人物には滅多に無いことだが――目を円くした。
 向かい合わせの座席に、慎ましやかに膝に両手を揃えた少女が一人、腰掛けていた。季節は冬に向かっているというのに、白いワンピースに同色のカーディガンをはおり、隣にはつばの広い帽子を置いて、まるでこれから避暑地に向かうような様子をしている。
「驚かせてしまった?」
 可愛らしく小首を傾げて、少女は問いかけた。匡は苦笑して応じる。
「まあね。居ることは知っていたし、声は聴こえていたけれど、耳で聞くことになるとは思わなかったものだから」
「私は、匡に聴こえるなんてことも思わなかったのよ。教えてくれてもよかったのに。ひどいひと」
「教えたら、俺を拒んだだろう?」
「そうね。そうしていたかもしれないわね。でもね、匡――私、幸せだったのよ。本当よ」
「ああ」
 頷いて、匡は少女の名前を呼んだ。
「わかっているよ、志乃」
 少女が微笑んで、言葉を返そうとしたのとほぼ同時に、速度を緩めていた列車が完全に停止した。ホーム側の自動扉が音を立てて開く。コートを腕に抱えて立ち上がった高都匡は、ごく自然な仕草で少女に手を差し伸べた。嬉しそうに頬を染めて、帽子を頭に載せた少女はその手のひらに右手を預けた。


 そのホームに降り立ったものは多くはなかったが、そこにいたほぼ全員の視線が、ひとりの少年に集中していた。年頃に不似合いな落ち着きと、なによりもその美貌は、周囲の目を否応なく集めるものだ。わざわざ足を止めて、感嘆のまなざしで少年をしげしげと眺めるものもあった。
 だが、その美しい少年に手を引かれた、季節外れの装いの少女に目を留めるものは誰もいなかった。ひとりふたりが、少年の左手を見やって、首を傾げたばかりである。彼らには、その左手は何もない空間に差し伸べられているようにしか見えなかったのだから。


「ここが、いまあなたが住んでいる街?」
 物珍しそうに辺りを眺めながら、少女――志乃が問いかける。
「そうだよ。移ってきたのは最近の話だけれどね」
「そう。――ひとり?」
「いや。相棒と一緒」
「まあ、ずいぶん長く一緒なのね。……はじめさん、だったかしら。一度会ってみたいと思っていたのよ」
「それが志乃の未練かい?」
 ずばりと切り込まれて、志乃は足を止め、困惑するように首を傾げた。
「わからないわ」
「判らない?」
「ええ。あなたはちゃんと来てくれたでしょう? だから、未練なんて、ないと思っていたのだもの」
「俺もそう思っていた。――変だな」
 匡はこころもち眉根を寄せる。
(愛しているわ)
 病院を出てからずっと、志乃の声は高都匡を追いかけてきていた。それ自体はたしかなことで、珍しいことですらない。
 だがそうした残留思念は普通、ごく弱いものだ。振り払いうことも、本人のもとに送り返すこともなくここまで連れてきてしまったのは、匡の気まぐれの延長のようなものだったが、それでも数日のうちには薄れていくものでしかない。それが、はっきりとした人格と姿――匡でなくとも、いわゆる「霊感」持ちなら志乃の今の姿を見ることができるだろう――を持ってしまうというのは、異常事態と言っていい。
「私、実は幽霊になってしまうほど匡のことが好きだったのかしら?」
 未練といえばやはりそれしか思いつかないらしく、志乃は大真面目に呟いた。頬に手を当てて、考え込んでいる。心から不思議がっている様子だった。
 その足元に影が落ちることはない。あきらかにこの世の存在ではないというのに、少女には決定的に禍々しさが足りなかった。
 匡は表情を緩めて、苦笑した。
「それを、真顔で俺に聞かれてもね」
「だって、どのくらい好きなら幽霊になれるのか、私は知らないわ。あなたはこういうことの専門家でしょう」
「俺だって、まだ死んだことはないよ」
「あら。そう言われてみれば、そうね」
 のほほんと交わされる会話は、耳にするものがいたら脱力を禁じえなかっただろう。
「困ったわねえ」
 台詞の中身ほどには真剣みの感じられない声音で、のんびりと志乃が呟いた。
「そろそろお通夜も始まるでしょうし、あちらに帰ればいいのかも知れないのだけれど。なんだか、そういう気にはなれないのよ。この街を離れたくないの」
「この街を?」
「ええ。やっぱり、あなたがいるからかしら?」
「おやおや、光栄だ」
 悪戯っぽく笑って、高都匡は気障な仕草で片目を瞑る。
「そうだな、行くあてがなさそうなら、うちへおいで。――相棒に紹介しよう」
 素敵、と少女が手を打ってはしゃいだので、話はそれで決まりになった。



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