夕刻八時。
繁華街ではまだ宵のうちというこの時間でも、こんな古い住宅街では見事に夜中だ。
「やだなあ、もう……」
呟いた声が誰もいない空間に反響する気がして、奈央は思わず肩をすくめた。
部活は六時すぎには終わるのだけれど、友人と喋りながら着替えと帰り支度をして、夕食までの空腹をなだめるためにドーナツショップに入って、それから電車に揺られて帰路につけば、嫌でもこんな時間になってしまう。
電車の駅から自宅までは徒歩十分。だが途中の公園を突っ切れば三分近く短縮できる。
いつもなら夜の公園を通ったりはしないのだけど、今日はマフラーを持って出るのを忘れてしまったし。
十一月末の空気はやたらと冷たいし。
妙なモノが出たりするらしいよ、なんて噂好きの友達は言っていたけど。
(今日くらいは大丈夫よねッ)
なんの根拠もない理屈をこじつけて、奈央は公園に足を踏み入れた。
公園、と言っても、色鮮やかに塗られたブランコだのジャングルジムだの鉄棒だのと、野球やサッカーがかろうじてできるような広場、あとはベンチがあるだけの、いかにも団地という感じの狭い場所だ。中央には水銀灯が、しらじらとした光を放っている。
「なんだ、けっこう明るいんだ……」
奈央は安堵のため息をついた。
だがそれが合図だったかのように――がさり、と傍らの樹が音をたてた。
(風っ……じゃ、ない――っ!?)
悪寒が背中を全速ダッシュしていく。緊張で強張った身体を無理やりねじまげて、そして奈央は、見た。
全身に立った鳥肌の、元凶を。
「見いつけ、た」
にいいいッと口の端をつりあげて、ソレは宣言した。
醜いほどやせこけた、おかっぱ頭の子供。
シルエットだけならばそう判断しただろう。
だが頭上の光は、その本質をはっきりと照らし出していた。
なによりも異様なのは、その、人間にはあり得ないダークグリーンの頭髪。
ぎょろりと大きなふたつの眼は灰色だ。瞳はない。だがそれでいて確実に、その視線は奈央をとらえていた。
背は低い。小学生らしいセーターとデニムのミニスカートから、筋張った手足がにょきりと出ているのがなんとも不似合いだった。
「なにッ……なにこれ……っ」
答えなど返るはずもなく、奈央はその場に立ち尽くす。
まるで声帯が麻痺したかのようだ。――叫べない。
「こっちに、おいでよ」
異形の子供は甲高い声をたてた。裂けるように開いた口の奥で、細い舌がちろちろとうごめく。
「おいでったら……」
伸ばされた右手を反射的にかわそうとして、奈央はよろめいた。膝が震えて思うように動けない。
クックッと喉を鳴らし、異形は歩を進める。
尖った爪の先が、奈央のコートの袖に触れようとした。
その時だ。
「――そこまで」
よく通る冷静な声が、その場に割り込んだ。
同時に、シュッとなにかが風を切る音を奈央が耳にした、その一瞬後。
「いったぁ……」
すぐ眼前に迫っていた少女が、手首を押さえてうずくまった。きつく握った指の間から、真っ赤な血が一筋伝い落ちる。
呪縛が解けたように、奈央は数歩あとじさった。
このまま逃げ出そうか、と体勢を整えかけ……ふと気づく。足許にひらりと舞い落ちたのは一枚のカード。おそらくは先刻の風音の正体だ。
早く逃げなければ、と理性が訴える。だが好奇心が勝った。昔からこういう局面で素直に理性にしたがった憶えはそういえばなかった気がする。
(トランプ……じゃ、ないなあ)
トランプにしてはやけに縦長すぎる。拾いあげて裏返すと、なにやら奇妙な絵が描かれており、上部にはローマ数字、下部にはアルファベットが並んでいた。
(D・E・A……)
光にかざし、そのアルファベットを読もうと奈央が目を凝らした、その視界のすみで影がひとつ、ゆらりと身を起こした。
「よくもぉ……姿、見せろ!」
ダークグリーンの髪を振り乱し、ギッ、と睨みすえた視線の先――水銀灯の光の輪からわずかにはずれた地点で、かろうじて見える黒い革靴の底が砂を鳴らした。
「おやおやおや……小学生は家でテレビ見てる時間じゃないかな?」
茶化すような、緊張感のない口調。
「うるっさいよ!」
異形の少女は牙をむき出して怒鳴り返した。殺気をたぎらせ身構える様子に奈央は首をすくめたが、相手のほうは一向に動じていないようだ。ゆっくりと砂を踏む足音に少女のほうが逆にたじろいだ。
光の輪の中まで進むと、その人物はいったん足を止めた。
全身をまるでスポットライトのように鮮やかに、水銀灯の光が包む。
少年だ。
怒涛のハイレベルで鳴らす進学校の制服に、白のロングコートを羽織っている。とりたてて長身ではないが、スレンダーな均整のとれた体格だ。
伸ばした漆黒の髪をひとつに束ねている。長めの前髪がその面に濃い影を落として、顔ははっきりとは見えなかった。
「失せろ」
一転して低く、その少年は言い放った。
「うるさいってば!!」
「二度は言わない」
少年が手首をひらめかせた。カカカカッ、と音をたて、奈央が拾ったものと同種のカードが数枚、グリーンの髪の少女をとりまくかたちで樹に突き刺さった。
「くうっ……」
心底悔しそうな顔をしながらも、この場は不利と悟ったのか。
それ以上ものを言わず、少女は身を翻した。緑の頭髪が闇に溶けこむ。
「思ったより利口だったな。――大丈夫?」
「……え? あ、はいっ」
最後の一言は奈央に向けたものだ。ワンテンポおいて気づき、奈央は慌てて返答をした。精神的には目一杯パニック状態だが、とりあえず怪我などはない。ないのだが。
(これから家に帰る体力、ないかも……)
頭の中がパンク寸前だった。生まれてこのかた十六年、平凡かつ堅実な人生を送ってきたというのに、なにゆえこんな目に遭わねばならないのか。
ヒロイック・ファンタジーだのオカルトものの世界ではないだろうに。
「あっあのっっ、さっきのって一体っ……きゃっ」
とりあえず目の前の少年はすこしは事情に通じていそうである。できればなかったフリをして布団かぶって寝てしまいものだが、そうはいくまい。
そうした思考経路を経て質問をしようと顔をあげ――ゼロコンマ五秒後に奈央は悲鳴をあげて思いきりのけぞることになった。
鼻の先数センチに長髪の少年の顔。無論顔だけでなく首以下全身ことごとく至近距離である。
「そんなに拒絶反応してくれなくても……。傷つくな」
謎の台詞を吐いて苦笑したその顔は、想像以上に整っている。オリエンタルな切れ長の目を細め、少年は奈央のおとがいに右手の指を添え上向かせた。
(え……ええええええっっ!?)
うろたえまくる奈央をよそに、少年はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。醒めればきれいに忘れられるから」
「はあ……?」
その台詞の意味を考える暇もなく――なにやら温かいものが首筋に触れたと感じたのを最後に、奈央の意識はあっさりとフェードアウトした。
「匡――――っ!! なあにすけべ根性出してんだよッ」
怒声と同時に、頭上――正確には公園に隣接した人家の屋根の上から、人間がひとり落ちてきた。空中で器用に一回転したのちに音を立てずに地面に降り立つ。ほとんど中国雑技団のノリである。
現れた人物に、少年――高都匡はそれまでの居場所および化物じみた運動神経については特にコメントせず、軽く肩をすくめてみせた。
「非っ常に不本意な言われようだな、それは」
「どこが!? お楽しみにしか見えなかったぜ」
「ふむ。それは否定しないが」
「だからそれがスケベだっつーてんだろッ。ったく、登場のしかたからして気障なんだよな、おまえはっ」
「それ全部傍観している朔も十分問題じゃないか? ところで、ちょっと手を貸して欲しいんだけどね」
「へいへい。ベンチでいーんだろ?」
「ああ、とりあえずは」
くたりと力を失った制服姿の少女を匡の腕から引き取ると、かるがると抱き上げて朔はベンチへと足を運ぶ。
「あのさあ、さっきわざと逃がしたろ。なんで?」
朔の背中が問いを発した。
「……鋭いな」
「このコ一人いたっておまえならなんとかなったろ、あの程度のザコ」
ベンチに奈央を丁寧に降ろし、くるりと見返る。
射抜く視線が正面から匡をとらえた。瀬能朔は匡よりも五センチ以上背が高い。
匡とは違う種類の、短くした詰襟の制服の上、やや我の強そうな顔が今は厳しく引き締まっている。
「確かにそこまで弱腰なつもりはないが……ちょっと気になってね」
「なに?」
それには答えず、匡は口の中で低くなにか呟いた。とたんに風が巻き起こり、重力の法則に反して一枚のカードがくるくると宙を舞ったすえ匡の手の内におさまる。
「気のせいだといいんだけれど」
ぴっ、と匡は朔にそのカードを投げてよこした。
器用に空中でそれを受けとめ、ふと朔が眉をひそめた。
細長い紙製のカード……匡が常時携帯するタロットカードの一枚だ。先刻運んだ少女がこの一枚を拾い上げたところを、朔も目撃している。
「七十八分の一の確率、って奴さ」
D・E・A・T・H――Death。
『死神』のカードだ。
「狙われてる……とか?」
「あるいは」
「――けどさ」
にやりと笑って、朔は右の手をポケットに突っ込んだ。
「それが俺らになんの関係があるんだ……って、言ったら?」
「……本気か?」
「どうせこの街もそろそろ潮時だろ」
「――――」
怜悧な瞳を細め、匡は視線をしばし泳がせた。
片手を添えた口許に、やがて奇妙な笑みが浮かぶ。
「どうしてもと言うなら仕方ないが……その代わり、炊事洗濯および掃除は覚悟しておいてもらおうかな」
「ぐっ……」
家庭の実力者の一言は絶大だ。
「判った判った、判りましたよ。もー人助けでもなんでもしてやろーじゃん!」
「それはどーも」
「その代わり、夕飯はとびきり上手いの食わせろよなッ」
「了解。その娘を家まで送ったらだけど」
了承の返答の代わりに再び奈央を両腕に抱き上げながら、朔はぼやくように呟いた。
「ったく……。おまえって正義感強すぎんだよ。他人のことばっか考えててなにが楽しいんだか。どうせ俺たちとは――」
「そんなにいい奴じゃない。俺は」
匡は苦笑を含んだ声を返す。
「誰だって結局エゴイストにしかなれないだろうし」
「――ま、どーだっていいけどね、俺は」
なにも変わりはしないかぎりは。
それが束の間だと知ってはいても……。
抱えあげた華奢な少女をもう一度しっかりと支え直し、朔はぐるりと見返った。
「で、どこ? 住所」