Century20 CARD ONE ―魔術師のいる街―

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ACT 7

 沈黙が、居間に訪れていた。
  視線を天井に向けて、朔はただ待った。麻里亜にすぐにでも逢いに行きたい気分は無論ある。けれど、匡の話がまだ終わってないのも、今この時点で朔が動く必要性のないことも、良く判っていた。
 動かねばならない時になれば、必ず匡はそれを言う。
 匡の書いたシナリオだ。不測の事態などあろうはずもない。乗ってやると決めたからには苛々しても無駄なだけだ。
 それくらいには、朔はこの性格の悪い相棒を理解している。あの狂気の時代、なくしていたはずの命を匡からもらって、五十年。伊達ではない年月を、ともに歩んできたのだ。
 背後で身動きする気配があった。匡の移動にあわせて、朔は目を窓へ向けた。
 開け放たれた窓の外の空気に、見慣れた仕草で匡の指が文字を綴る。
 彼の好んで使う、精霊魔法の呪のひとつだろうと朔は見当をつけた。先刻、マンションに戻る前に用いたのとおそらく同じものだ。
「変わったことは?」
「ないよ。大丈夫」
 案の定、問いに応じて匡は頷いた。
「あやはしばらくは動かない」
「あや?」
「この処俺の周りをうろついていた妖魔さ」
 窓を背に匡が腕組みをする。
「あれは獏だな。と言っても本人は判っていないみたいだけれど」
「獏? 獏ってあれだろ、悪い夢を喰うっていう幻獣。たしか、良い魔物ってことになってないか?」
「悪い夢を喰って、かわりに良い夢を見せるからね、そう言われるんだろう。けれどそれは甘い毒だ。不幸な人間にとってのいちばんの悪夢はこの現実、それを喰われてしまえば――どうなると思う?」
 朔は眉をひそめた。
 言わんとするところは、なんとなく判る。あまり楽しい想像ではなかったが。
「眠りの森の美女、ってか?」
「そう。あやはオーロラ姫に魔法をかける魔女というわけ。……そうしてあやは食事にありつくのさ」
「やなやり口だな」
「そのぶん有効だ。まあ、先刻は相手が悪かったね。俺に栞の幻影を見せて、それで俺を眠らせようとしたんだから」
「そりゃあ……そのあやって奴に同情するなあ俺」
 逆鱗というか薮蛇というか。よりによって匡の、いちばんのプライヴェートを無神経につついておいて無事で済んだとは思えない。
「あれ? でもあやはまだいるんだよな。消さなかったのか?」
「考えがあってね。お仕置き程度でとどめておいた」
「考え? ――まりあか」
「そう。今のまりあはあやにとってはこの上ないごちそうだ。しかも邪魔な護り役を排除できる一石二鳥のチャンスだからね。見逃すはずはない」
 なにせ俺を喰おうとするほど無鉄砲なお嬢さんだからね――と匡は含み笑いをする。
 さすがにそれに同調する気には、朔にはなれなかった。
 今の麻里亜は不安定すぎる。
 幸せな夢に誘う獏を、彼女は斬り捨てられるだろうか。
「まりあがあやに勝てるならいい。それだけの強さがあるのだったらこの先も生きていける。――でもそれは難しいだろうね。俺がでしゃばっていなくても多分、ひとりではまりあは勝てないだろう」
 ふわりと匡は右手を空に泳がせた。
 魔法のように忽然と、その掌に一組のカードの束が出現した。
 それが種のある手品にすぎないことを朔は知っている。本物の魔法使いの癖に匡はトリックを使うのをやけに好むのだ。
 マジックに変わりはないだろうと笑って。
「じき日が暮れる」
 肩越しに匡は街並みを見下ろした。
 手許を見もせずに択び出した一枚のカードを投げて寄越す。ガラステーブルを滑ってそれは朔の目の前でぴたりと止まった。
 骸骨の顔。黒い大きなマント。禍禍しく光る鎌。
 すべての終わりの――死神のカード。
「逢魔が時が――来る」
 うたうように匡は告げる。
「あやが、動くよ」
 朔は顔を上げた。
 動じぬ瞳がまっすぐに、匡を射る。
「……殺させない」
 微笑んで匡は窓際を離れた。
「憶えておくことだ。おまえの役目は護ることじゃない。それは救いにはならない」
 白い指が死神のカードに触れ、deathの文字をなぞった。
「隣にいて、支える。それだけだよ。来し方は変わりはしないけれど――」
 つい、となめらかな動きでカードを反転させる。朔から見て、絵柄が逆様になる向きに。
 逆位置と言うのだと、以前教わった記憶がある。
 カードの告げる意味が一変するのだ。大抵は正反対に。だから悪いカードは良いメッセージを運ぶものに、なる。
「行く末は、それで変えられるのだから」
 もう一度、匡が笑んだ。凄絶に綺麗な笑みだった。

「行っておいで」
 待っていた行動の指示がやっと聞けた。頷いて、朔は足早に玄関に向かう。
 けれど、わずかな引っ掛かりが朔の足を止めさせた。
「……おまえは? 来ないのか?」
「まりあをあれだけ傷つけておいて? まさか。そこまで厚顔じゃない。行く義務も権利も俺にはないよ」
「馬鹿」
 ひとこと吐き捨てて、朔はリビングにとって返した。
 どこか所在なげに立つ高都匡の、二の腕を取って真上から睨みつける。
「おまえが来なきゃ終わらない」
 詭弁だと知っている。
 匡がはじき出す理論が、いつだって正しいのだ。
 それでも譲れなかった。
「おまえが、いなきゃ。俺が走れない」
「―――。何も、しないよ? 俺は」
 かすかに首を傾けて、匡が確認してくる。
「いいぜ。上等」
 朔は不敵に笑った。

 りいん、という鋭い音に、麻里亜の意識は現実へ引き戻された。
  のろのろと身を起こす、その間も鳴り止まない音の源は、知りすぎるほど良く知っている。
「……牙月」
 足許に投げ出された、紫色の絹に包まれた日本刀を麻里亜は拾い上げた。
 目を逸らしてしまいたくなる衝動を必死の思いで押え込み、絹布を剥ぎ取った。現れた、古めかしい細工の柄を握りしめる。関節が白くなるほどに、強く。
 急かすように牙月が、鈴を振るのに似た音を幾度も響かせた。
 竜を滅ぼした退魔刀。数えきれぬ命を吸った刃――重過ぎる歴史。
 なのにそれを背負うのは、牙月を継いだ自分しかいないのだ。
「判って――いる。行かなくては」
 一度牙月を置いて、麻里亜は立ち上がった。クロゼットを開ける。
 多くない衣類の中から紺の制服を選び出した。まるで儀式のように丁寧に身に着けて、最後に麻里亜はセーラーの襟から規定の深紅のスカーフを抜き取った。
 かわりに抽斗から漆黒のそれを出して胸許で結ぶ。
 ゆっくりと目を閉じ。
 そして開いた瞳から、感情は消えていた。

 玄関を出て数歩も行かぬうちに、あたりを包む違和感に麻里亜は気付いた。
「結界か」
 小さく呟き、ためらいなく鞘を払って銀光りする刀身をさらす。
 落ちかけた夕日の茜色をはね返して牙月が目映く煌いた。
 ――そういえば瀬能朔と出逢ったのも――
(思い出すな!)
 眩暈がした。

「こんばんは」
 唐突に声がした。
 はっと顔を上げ、身構えた麻里亜を幼い声がくすくすと笑った。
 現れたのは一人の少女だった。ふわふわと綿菓子のような。
「はじめまして。あたし、あや、よ」
 可憐な微笑に応えるように、りん、と牙月が叫んだ。
「何者だ?」 
「だから、あや」
「……いい。何の為に私の前にわざわざ現れたかは知らない。だが、牙月はおまえを喰いたいそうだ」
 言い終わらぬうちに麻里亜は動いた。風を切って牙月を横一文字に薙ぎ払う。あまり本気ではなさそうにあやは短く叫んで、後ろへ跳躍した。
「あなたのためよ、まりあ。あやはね、迎えにきたの」
 あやがもう一度にっこりと笑う。
「訳の判らないことを」
 眉をひそめた麻里亜を取り巻くように、牛乳を流したような濃い霧がたちこめ始めた。
 舌足らずに、あやが唄う。
「かぁごめ、かごめ、―――」
 ゆるやかに。甘く。
 頭の芯がしびれた。視界が、にじむ。
 ほんの数歩で手の届くところに、ひどく無防備にあやは立っている。先刻はまだ、無邪気なふりを装いながら攻撃に備えているのが読み取れた。けれど今は。
 大きな瞳はぴったりと麻里亜を見据えているのに、その手の内にある退魔刀など存在しないかのように緊張をといてあやは、楽しそうに唄い続けるのだ。
 動かなければと、頭の片隅で理性が叫ぶ。
 だが駄目だった。幼い歌声が還りたい過去の記憶を呼び戻して麻里亜をからめとろうとする。忘れていた幸せな夢の記憶――それは抗いがたい誘惑だった。
 心地よい陶酔に麻里亜は意識を委ねた。がらりと、鈍い音を立てて牙月がアスファルトに転がった。
「――うしろの正面、だあれ?」
 唄い終えて、あやは満足そうに喉を鳴らした。
 獲物が罠にかかった。
 このうえなく優しく、あやは言ってやる。
「あやの結界へ、ようこそ――まりあ」
 白い霧が、いっそう密度を増して、ゆらめいた。

 優しく、やわらかく、名前を呼ぶ声に麻里亜は振り返る。
(麻里亜)
 日傘の下から招く白い手の、薬指の指輪が陽射しに煌いていた。
 ――おかあさん。
 駆け寄って間近に見上げた、化粧気のない顔が微笑んだ。
 その隣に、支えるようにして立っていた男性が、麻里亜の手を取ってそのまま軽々と抱き上げる。
 ――自分で、歩けるってば。
 ――おとうさん。
(そうか?)
 自分と良く似た茶色い目が、面白がるように細められる。
 日傘の下からくすくすと笑う声。すぐにそれは三人分に増えて。

  いつと特定することもできない、平凡な――
  そしてとても、幸せな、記憶。

(あの頃は、この手はきれいだった)
  ぼんやりと麻里亜は想う。
(けれど)
  今は。

  暗転――。

  和服の女性が泣いている。
(罰なのかしら)
(これは、罰なのかしら。この家から逃れてしまった私への)
  ――泣かないで。
(ごめんなさい、麻里亜)
  華奢な腕が抱き寄せて髪を撫でる。
  それはいつも、とても嬉しいことだったけれど。濡れた頬がそこにあるから、麻里亜は悲しくなってしまう。
  衝撃から先にまだ進めない父の死よりも、母の涙が胸に痛い気がした。
(私があなたに真田を負わせてしまう)
  ――悪くない。お母さんは悪くない。
  その時誓ったのだ。
  けして、この可哀相な人に、悲しい顔を見せないのだと……。

「けれどあなたは不幸せ。まりあは不幸せ」
  記憶の幻を貫いて声が響いた。
「まりあはつみびとなのだもの」

(どうしてあたしが殺されなきゃならないの!)
  髪を乱して女が泣き叫ぶ。
(喰べなきゃ生きていけないのよ、あんたたちだって食事するじゃない! あたしたちは生きてちゃいけないって言うの!?)
  そして、ヒステリックな、笑い。
(あんただってあたしと同じじゃない。正義づらしないで。人間ならあたしに喰べられるだけよ、あたしを狩れるあんたなんか、人間じゃないわよ、化け物よ、あたしたちと同じね……!!)
  その首を刎ねた牙月を、動かしたのが、使命感でなく己の感情であったと麻里亜は知っている。

「私の手は朱い」
  口が勝手に言葉を紡いだ。
「血で、汚れて。染まってしまった。もう落ちない……落とせない」

  美しいヴァンパイアが微笑する。
  現実に在る闇を知りもしないで、あたりまえに平穏に生きている「普通の」人間よりも何倍もきっと、自分に近いだろう存在。
  けれどその手を麻里亜は取れない。
  仲間殺しだから。
  ここにもとどまれない。
  化け物だから。

「戻りたい」

  しあわせになりたかった。

「……もういいのよ、――まりあ」
  霧がゆらりと流れた。
  ある一点で、すうと晴れる。そこに――香子がいた。
  淡い、明るい色の着物は、父が死ぬ前まではよく好んで着ていたものだ。悲報のとき喪服と入れ替わりにしまいこまれてそのまま、今も箪笥の奥に眠っているはずの。
「もう、いいの」
  晴れやかな笑顔だった。そのことに麻里亜は胸を衝かれる。
  父親が死んでからずっと、香子の白い顔にはどこか陰があった。微笑んではくれたけれど、瞳の奥はいつもくもっていた。
  けれど今。
「――かあ、さん……?」
  香子は幸せそうだった。昔のままに。
  ずっとずっと願っていたとおりに。
  たおやかに細い腕を、香子は麻里亜にさしのべた。
「まりあ。いらっしゃい。こちらへ――ここでなら、幸せになれるわ」
「母さんはそこで、幸せ?」
「そうよ」
  ふわりと香子が微笑む。
「ここにはあのひともいる。真田の、あの家の呪縛はないわ。まりあ、あなたもそう。役目はつらいのでしょう? 哀しいでしょう? もう、我慢しなくていいわ。捨ててしまっていいの。おいでなさい。ここへ。私のところへ」
  母の言うそこが彼岸だと、どこかで知っていた。
  だが理性すらももう制止を叫びはしなかった。
  足許に転がる牙月を、緩慢に麻里亜は見遣った。
  ごめんなさい。
  呟きは声にならずに、口のなかで消えた。
  麻里亜は再び母に向き直る。
「……母さん」
  香子は嬉しそうな顔をした。霧がそのまわりで、ゆらゆらと震えた。

「そこへ、私も」

  右手を、伸ばしたはずだった。
  香子の手に重ねるために。
  それなのに。
「…………っ!」
  叱りつけるような、声が、届いて。その音をことばに捉えなおすより早く、
  右腕が肘から強引に取られて、よろけた肩を支えるものがあって、
 そして、

  麻里亜は息を詰めた。
  背にあたたかい体温を感じる。
 ――うしろから、抱きすくめられていた。

  その時になって麻里亜は了解する。
  霧を裂いて届けられた、声。その意味を。
  名を、呼ぶものだった。……瀬能朔が。
 まりあ、――と。

「……言わなかったか?」
  ぽつりと麻里亜は問いかけた。
「なにを?」
  腕の力は緩めないままに、朔は訊き返す。
「今度は……斬ると」
「……ああ」
  朔は苦笑したようだった。
「それも、いいかもな」
「え?」
「少なくともその間は、まりあは俺を見てるだろ?」
「…………」
「向こう岸のかわりにさ」
  語られる言葉は、ひどく静かだ。
  そのせいなのだろうか? つい先刻、考えることさえ己に禁じた相手なのに、なぜか心が波立たない。
「まりあ。……おまえがさ、本当に死んじまいたいって思ってんなら。生きてても全然いいことないって本気で言うんなら、俺がちゃんと殺してやる。あやの幻覚なんかに頼んなくても俺が、この手で。――なあ、死にたいか?」
「……判らない」
  囁くように麻里亜は答える。
「たぶん私は、何も望んでいない。ただ、いる場所がない」
  偽りにせよ母が呼んでくれた、彼岸の他にもう。
「馬鹿なこと言ってんなよ……」
  朔の力が、緩んだ。麻里亜の肩を押して、正面から目をあわせる。
「嘘だろ。なにも望んでいないなんて――」
「まりあ」
  甘い声がそこに割り込んだ。
  麻里亜の制服の肩が震える。
「おいでなさい、まりあ」
  ちっと朔が舌打ちした。
「うるっせえよ」
  切り捨てる台詞の冷たさに麻里亜が目を瞠り、朔を見あげた。
「母さんに――」
「お袋さんなんかじゃねえよ。うすうす判ってるだろ? あれはおまえの心にシンクロしてあやが創りあげた幻」
「あや?」
「獏、なんだとよ」
「ばく……」
  ぼんやりとその言葉を繰り返す。
「まりあ」
  ふたたびの呼び声。
  だがそこにまぎれもない苛立ちが含まれているのを、麻里亜は聴きとった。
  母の声には存在することのない響きだ。
「うるせえって言ってんだろ?」
  庇うように麻里亜の肩を抱いて朔が言い放った。
  和服の女はくっと細い眉を寄せる。
「おまえ、邪魔だわ……」
  つきつけた指から稲妻が走った。まっすぐに心臓を狙った光はしかし、見えない壁にはじかれて消滅した。朔の前髪のひとすじすら動かない。
「……何もしないっつったのはどこの馬鹿だよ?」
  ぼそりと洩らした言葉に、麻里亜が問いかけるように視線を寄越した。
「へへ。何でもね」
  唇の端で笑ってみせて、それから朔はふと目を瞠った。
  そしてもう一度、破顔する。先刻とは違う、嬉しそうな柔らかな笑み。
「…………?」
  麻里亜は首を傾げた。
「おまえは死なさないよ。だめだ。まりあ、まだちゃんと見てるじゃないか」
「――――」
「俺のこと見てるよ」
  色のうすい、長い髪をひとふさ、朔はすくいあげる。
  父にも母にもこれだけは似なかった茶色い髪。
「だからまりあ。してほしいこと言えよ。聞いてやるよなんでも」
「……私は……」
  麻里亜の瞳が揺らいだ。
「私が居てもいい場所が、欲しい」
  意識する前に、こぼれ出た言葉だった。
  それが歯止めをはずしたのか。凍てついていた感情が、言葉が一息に溢れだす。
「本当は判っている。私はもう、とっくに普通の人間じゃないんだ。牙月を持ったときからそう。……だけどどうして! 人を護るために継いだ役目なのに、それなのにどうしてそのせいで、ばけものと呼ばれなきゃいけない……!?」
  目の前の長身の体にすがりつかないのが最後の意地なのかもしれなかった。
  爪がくいこむほど握りしめた両手が震えている。
「母さんがごめんねって言うから。近くにいられなくてごめんねって。だから私は離れちゃいけないのに。これ以上ひとじゃなくなっちゃいけないのに。でも役目だから殺して、殺すたびにどんどん遠くなって、そのたびに仲間殺しになっていく! じゃあ私は、……私はどこにいればいい! 居場所なんてどこにもないじゃないか!!」
  血を吐くような叫びが、その絶望が痛すぎて、朔はとっさに言葉を失った。
  視界の隅で童女が――麻里亜には最愛の母と見えているはずの「あや」が――紅すぎる唇をつりあげるのが見えた。
  ふたたび麻里亜を幻術にとりこめると判断したか。
(んなことさせっかよ)
 朔は目を閉じる。弱気を、脳裏から追い払った。

 ――憶えておくことだ。

  護るのでなく支えろと。遠い昔に彼の恋人がそうしたように。
  それが匡の示した道。
  未来を変えるための。悲しみを招かないための。
 考えろ。ならば、どうしたらいい?

 ――幸せにならなれるわ――

「まりあ」
  しっかりと開いた目で、まっすぐに真田麻里亜をとらえて、朔は呼んだ。
  穏やかにけれど強く。迷わない声音で。
「まりあ。居場所ならある」
  顔をあげた麻里亜に、一歩ぶん離れた距離から笑いかける。
「俺が、おまえのそばにいる。まりあはそのままそこにいればいい。人間だろうが化け物だろうが、おまえが真田麻里亜であるかぎり俺もここにいるから」
  二人の距離のちょうど真ん中まで、朔は片手を差し出した。
  本当は腕を伸ばして抱き寄せてしまいたい。力ずくでここから奪い去って、一晩中でも慰めてキスをして。
(けどそれで済む女ならはじめっから惚れてない)
  かわいそうだから心惹かれたのでは、なくて。
  目を離せなくなったのは、それでも毅然とあろうとする強さだ。
  だから、待つ。――待てる。
「私が……私であるかぎり?」
  戸惑いを隠せない表情で麻里亜が繰り返した。
「うん」
  頷く。
「おまえが、そうやってそこにいれば。それだけで俺はいいよ」
「……私は瀬能を殺すかもしれない」
「そんじゃ一生バトルしようぜ。俺やっぱ簡単にやられてやんない」
「真田も牙月も全部捨てて逃げ出したら」
「世界の涯までもお供しますよお姫様」
「――――」
  麻里亜は呆然と朔を見上げた。
  どうしてこの少年は、こんなにも自分を……。
「何故?」
「カンタンなこと。瀬能朔は、真田麻里亜が好きだからさ」
  相変わらず右手を差し出したままに、朔はさらりと答える。
「死なせたくも悲しませたくも、ないんだよ。あたりまえだろ?」
 麻里亜はゆっくりとまばたきをした。

  ――自分は仲間を探しているのだと思っていた。
  けれど真実、求めていた相手は多分、『仲間』ではなくて。
  自分という存在が、ここにいてもいいと認めてくれればそれだけで良かったのだ。
 だから……。

  麻里亜は前へと一歩踏み出した。
  辛抱強く、待っていてくれた朔の掌に、自らの手を重ねる。
「――ありがとう」
  囁くような声は、多分届いたろう。
  あいた左手を持ち上げて、朔は麻里亜を抱き寄せた。
  なめらかな髪に顔を埋める。
 朔の右手と麻里亜の左手が、もう一度しっかりと握りあわされた。

「……瀬能」
  朔の肩に額をのせたまま、ちいさく麻里亜は呼ぶ。
「ん」
 僅かに体を離して朔が顔を向けた。
「やり残してる、ことがある。――見ててくれ」
「了解」
 朔はおどけたように眉をあげてにっと笑った。やっぱりこの方が良く似合う。
 つないでいた手をそうっとはなして、麻里亜は数歩先に転がる牙月を拾いあげた。
(すまない)
 心のなかで詫びてそれから。
 母を見た。
 否、母のかたちを映した女を。
「まりあ」
 かなしげに女が呼ぶ。けれどそんなものは知らない。
「私と来れば……悩むことなんてなくなるのに。母さんを殺すの?」
「おまえは私の母じゃない」
 女は顔を歪めた。ぎり、と唇をかむ。
 そして次の瞬間、唐突に笑い出した。神経に障る甲高い笑い声をたてる。
「あはははッ……麻里亜やっぱ化け物よね! 血も涙もないんだ!」
 それと同時に和服の女の輪郭がにじんで崩れた。その代わりに出現したのはあやと名乗った童女。
「まりあ」
 背中から気遣わしげに瀬能朔が声をかけた。
「――大丈夫」
 振り向きはせずに麻里亜は微笑する。
 そして、慣れた仕草で牙月を目の高さまで持ちあげた。
 あやがあとじさろうとして、不自然にその動きを止める。
「真田家当主として。退魔の剣牙月の継承者として。……私の、大切な人たちを護る力を持つ者として、私はおまえを斬ろう」
 よどみなく宣言すると、一気にあやに詰め寄り麻里亜は袈裟懸けに牙月を振りおろす。断末魔の悲鳴が途中で切れ、少女のかたちは喪われて小さな砂山が残った。
 深呼吸をして、麻里亜はくるりと振りかえる。
「決めた。牙月から、真田から逃げない。私が誰でも、私の好きな人たちを護れることに変わりはない。そう、考えればいいんだな。楽しい役目とはとても言えないが、自分が働かなかったせいで誰かを喪うよりずっといい」
「んじゃ俺とのバトルは?」
「しない、そんなもの。私を悲しませないでいてくれるんだろう? 人を傷つけたら私は悲しむぞ」
「……そりゃ確かに。惚れた弱みだねえ」
 朔は手を伸ばして麻里亜の髪をぽんぽんと叩いた。
「えらかったな」
「……どうも」
「言っとくけどさ、お袋さんもじいさんもおまえが誰でもおまえのこと好きだぜ、絶対」
 念を押すように覗き込まれ、麻里亜は真面目に頷いた。
「判ってる。今は、ちゃんと」
「ん。――さーてと」
 朔はポケットに手を突っ込むと、心持ち苛立ちの混じった声を中空に投げた。
「匡! いい加減出て来いよ」
 麻里亜の全身に動揺が走った。無意識に牙月を強く握り締め、そしてそこで彼女はあることに気付いた。
(共鳴が消えた……)
 「あや」はもういないのだから、当然といえばそうなのだが……。
 革靴がアスファルトを踏む、聴き憶えのある足音がした。
 いずれ訪れる夜の闇に溶けそうな漆黒の髪を今は襟足で束ねた、並ならぬ美貌の主。
 手品師でありヴァンパイアでありそしてまた瀬能朔の相棒でもある人物。
 ――高都匡。
「こんばんは……」
 テノールの声がそう言って、そして彼は少しだけ困ったように微笑した。

「おまえさあ、どうしてそう嘘つきなわけ?」
 顔を合わせての第一声がそれだったことに、匡が意表をつかれた様子はなかった。
 鼻先につきつけられた指をついと払って片眉を上げる。
「ひとを指差すんじゃありません」
「……おまえな」
「嘘? なんのことかな」
 大真面目に考え込むそぶりをする匡の額を朔の指先がぱちんと弾いた。
「痛いよ、朔」
「ふざけてんじゃねー。なーにが、『なにもしない』だ。護身結界張るわあやの足止めするわ」
「でも役に立ったろう?」
「……ま、な」
 肩をすくめて。
 朔はふと、沈黙を保つ麻里亜を見遣る。
 蒼白な顔色をして、それでもたたえた表情は静かだ。……というより、呆れられているのかもしれない。この長年の相棒との会話が傍から見るとかけあい漫才でしかないらしいのも、さすがに少しは自覚している。どちらのせいかは知らないが。
「説明を、願えるか」
 そう言ったのは麻里亜だった。
 まばたきひとつで常のポーカーフェイスを取り戻し、匡はゆっくりと頷いた。
「そうだね。……昔話を、しよう」
 宵の明星が、彼の背後で瞬いていた。



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