「栞の話を、俺はどのくらい朔にしていた?」
二人暮らしにしてはやや大きいソファセットに向かいあわせに座り、約束通りのコーヒーの白いカップに唇を近づけながら、匡はそんな風に切り出した。
「栞、の? うーん」
聞き慣れた名ではあったが、朔は眉根を寄せた。
栞。それは、自分が匡に出逢う前、この世に生まれるよりもずっと昔に、匡と共に在ったという少女の名だ。
色素のない、現代でいうアルビノの身体に生まれたということ、盲目に近かったことを聞いている。生死すら判らぬ状況ではぐれて、今に至るまで匡が捜し続けている相手だ。匡が恋人と呼ぶただひとりの、少女。
「身体のこと。おまえが今も追っかけてるってこと。多分それくらいじゃないか? どんな子だったとか、そういう惚気は、おまえの口から聞いたことはねえよ」
「惚気ね。じゃあ今からお聞かせしよう」
軽い口振りとは裏腹に、その目は切ないくらいに遠くを見ている。
知らず、朔は膝に置いた手に力を込めた。
もう五十年も共にいて、栞のことを改めて聞いたことは殆どなかったと言って良い。
もともと昔話を好む質では二人ともなかったけれど、敢えて朔のほうからは触れなかったのには他にも理由があった。
慈しむような、愛おしむような、どこまでも優しい瞳をして匡は少女の名を呼ぶ。
永い永い間捜しつづけて見つからない、絶望的に失われた存在へ、今も匡の心は向かっているのだと――それを見るのが嫌だったからだ。
嫉妬、かもしれなかった。多分それを匡も判っていて、いつからか全く触れようとしなくなった。
けれど本当はとても聞いてみたかった話でも、あった。
「出逢ったのは、あの子がまだ十の頃だったかな」
いつもより少し低い声で、匡はそう切り出した。
「高都がばらばらになって、俺が一人になってしばらく経った時分だ。ふらりと立ち寄った村に、泣いてるあの子がいた。兎みたいな赤い眼から、ぽろぽろと涙をこぼして」
かすかに、長い睫毛を匡は伏せる。
「……一緒に暮らすようになった。五年。本当はそんなに長くするつもりはなかったよ。あの子がしあわせになれる処を見つけて、そこに置いていこうと思っていた。……あの子には未来があったのだから。だけど」
――嫌よ。
匡がいなくなるのは、嫌。
泣きながら言うのではなかった。出逢いの時こそ泣いていたけれど、本来感情をあまり表に出さぬ物静かな少女だった。
ただ儚げに微笑んで、そのくせけして譲らずに。
離れるのは嫌だと。
「それでも栞が十五になった年、もう一緒にはいられないと――そう告げた。俺では幸せにしてやれないからと。それに俺はまだこの体に慣れていなくて、多分、怖かったんだ。あの子が俺を追い越していくのが」
「俺は今でも怖い」
ぽつりと朔が言った。半ば独り言のように。
匡は口許をかすかにほころばせた。
「幸せにならなれるわ」
桜の季節だった。
見えないのになぜか、栞は桜が好きだった。その日も満開の大樹の下に連れ出して、嬉しそうに頬を染める栞に匡は別れを告げたのだった。
「無理だよ。俺は化け物だから」
「ばけものならわたしもだわ。ずっと、そう言われてきたもの。とうさまと、かあさまと、匡だけよ。わたしを、きれいと言ってくれたのは」
さらさらと風が、栞の長い髪を揺らしていた。
降りしきる花弁に抱かれて、白い少女は桜色に染まって見えた。
「ばけものだから、なあに? 関係ないのよ。ばけものだからでもひとだからでもないの。あなたは匡だわ。あなたが匡だから、わたしは一緒にいたいの」
「―――」
「あなたが好き」
ひどく、優しい声だった。包みこむような。
「匡は、わたしのこと好き?」
「好きだよ」
「うれしい」
本当に嬉しそうに、栞は微笑んだ。
そして、ゆっくりと歩み寄った。覚束なげに伸ばされた細い指が、匡の頬をさぐりあてた。
「つれて行って。匡」
「駄目だ。俺じゃ幸せにはできない。それに、いつかは栞のほうが俺を置いていくんだよ」
「わたしの幸せは、匡のところにしかないわ。つれて行ってって言った意味、わかっていないのね。簡単なことなの。わたしが匡とおなじになればいいの。そうしたら、わたしは匡をおいていかなくていいでしょう」
「――栞」
うふふと、声を上げて栞は笑った。
「言ったでしょう? 関係ないのよ」
「――以上、惚気終わり」
ひょいと肩をすくめ、匡は空になったふたつのカップを取って立ちあがった。
「なあ」
キッチンに向かう背中を、肩越しに仰いで朔は声をかける。
「なに?」
「なんで今、俺に?」
語尾にかぶせて、勢いのある水音が居間まで聞こえてきた。それでも問いの中身は届いたらしく、匡は唇の端をもちあげた。
「判らない?」
蛇口をひねって水流を止めて、匡は逆に問いかける。
「判んねえから、訊いてんの」
「そうかな」
指先の水滴を払って、やっと匡はリビングの方へ向き直った。
こんな時でもそうやって些末時に動いてしまうのは、習い性のようなものかもしれない。或いは過去に翔んだ心を日常に引き戻す、ささやかな儀式でもあるのだろうか。
「――朔は、まりあを見てどう思う」
唐突に話題がとんだが、朔は平然と受けとめた。慣れている。
「苦しそうだな、って。最初は淋しいんだと思ってた。だけど、それよりもあいつの枷になってんのは、自分が人間だって思いたいのに思えないことだろ」
痛ましげに朔が凛々しい眉を寄せた。
「まりあが、人間じゃないといけないと思っているのは何故」
「まりあが"護り役"だから……この街に集まる魔の者を斬るのがまりあの役目だから。そいつらはまりあに敵じゃなくちゃいけない。自分は人間で、その人間をおびやかすのが妖魔だから、斬る。殺す。そういう理屈で自分を納得させてないと壊れちまうって、たぶんまりあ自分で知ってた」
それを、壊したのは匡だ。判っているけれど、朔はもうそのことを責めようとはしなかった。ただほんの少し視線を逸らして。
「……やさしすぎる」
呟いた。
「そうだね」
匡は頷く。おまえもねと、心の中でつけくわえて。
「あんな綱渡りみたいな状況でも、事実から目を背けていても、それでまりあが幸せでいられたならそれでも良かったのだろうけれど。でもあれは、いつか壊れていたよ。確実にね」
「――事実?」
「まりあは――牙月を継いだ真田の当主は既に、ひとの領域の外に踏み出しているということさ」
さらりと、匡は言ってのけた。その唇に、笑みはさすがになかったけれど、そのかわりに哀しむ色も瞳には見えなかった。
事実、と。
ほんとうのことなのだと――言う。
朔がなにか反駁しかけた。けれどそれを抑えるようにして、匡は変わらぬ穏やかな口調で言葉を継いだ。
「俺や朔が、もう自分でも人なのか化け物なのか判らないのと同じくらいにね」
「人間だって言っていいって、おまえが言ったんだろ」
「そう。言ったね。朔は、それで納得した?」
問い返されて、朔は憮然とする。
判りきっているはずだと、責める言葉をかろうじて飲み込んだ。
「納得とかいうんじゃなくて。俺にはおまえがいたから別になんだって良かったんだぜ? 化け物かどうかなんて、一度だって訊かなかったろうが」
「そうだったな。まりあに逢うまでは。いつおまえがそれを訊くかと思っていたのに、まさか五十年も待たされるなんてね」
「……なあ」
ひっかかるものがあって、朔はふと首を傾げた。
よもやの三文字を顔に書いて、立ったままの匡をうわめづかいに見上げる。
「おまえさ、まりあに妬いてない?」
「―――」
匡が絶句した。
まばたきすら忘れたような相棒の顔を、朔はまじまじと見やった。次の瞬間、こらえきれずに吹き出す。
そんな状況ではないと判ってはいるが、止められない。なにせ鉄壁のポーカーフェイス人間高都匡が、まともに不意をつかれた顔をさらしたのだ。
十年に一度あるかないかの大快挙、である。肩を震わせて笑いながら、カメラを用意しておくのだったと朔は真剣に後悔した。
「……朔」
すでに怒る気も失せたと言いたげな、乾いた声が間近で聴こえた。
いつのまにか匡がすぐそこまで来ていて、朔の掛けているソファの背に軽く体重を預けた。ソファはもう一つちゃんと空いているのに、朔と正面から目をあわせるのを避けるようなそぶりだった。意識してか、否かまでは判らないが。
「答えろって。妬いてんの?」
「まさか」
笑みの余韻をたたえた問いを、匡は一言で切り捨てた。毛筋も表情を変えずに。
「ふーん? ま、いいけどな」
こっそりと、朔は安堵する。空気が、元に戻ってきていた。
常のとおりの、居心地の良い空気が。
「まあとにかく」
咳払いひとつで、匡は話題をひきもどした。
「俺は結局、栞を道連れにしてしまったけど。その前にもう、あの子は俺を救けてくれていたよ。人でなくても生きていていいと、思わせてくれた」
中空に目を向けて、そしてそっとその双眸を閉じる。
「好きだと、言ってくれた――それだけで」
甘い微笑。
「……ずるいと言えばずるいんだよな」
立腹を装って朔はぼやいてみせた。
「おまえにはちゃんと支えになる可愛い彼女がいたってのに、俺はと言えば老成した野郎だぜ? 潤いがないったら。不公平だよなー」
「俺がちゃんと美人なんだから、それで我慢するんだね」
「………。おまえいつのまに開き直ったんだ?」
「つい先程」
「そりゃ、おめでとさん」
ぱちぱちと気のない拍手を朔はする。言葉通りの綺麗な面に面白がるような笑みをのせて、匡は手品師の優雅な礼をかえした。
「でも、美女から支えが得られなくても、美女"の"支えにはなれるだろう、朔は」
「なんだよ唐突に?」
何気なく――本当に、ぽんぽんと話題を飛ばすのはこの人物の癖なので――朔は訊きかえすが。
すぐに表情を改めた。顔を上げた高都匡の唇に、笑みのかけらも残っていなかったからだ。
「だから、まりあだよ」
「―――」
「俺にとっての栞に、朔がなればいい。まりあのために。そういうことだよ」
「……ああ、そっか」
納得した。はじめから――栞の話をしたところから、匡が判らせたかったのはこれなのだ。
「そうか。そうだよな」
麻里亜と自分と。立っている場所は違う。「普通の人間」よりかはお互い近いけれど、それでも隔たりは厳然とある。
問題なのはその距離ではないのだと、匡はそう教えているのだろう。
「俺が人間だろうがなんだろうが、まりあには関係ないんだよな……」
「まりあを……どう、思う?」
先刻と同じように、匡がぽつりと問う。
「惚れた」
小気味良いほどきっぱりと、朔は言い切った。
それでいいというように匡は頷いた。穏やかな、見守る色の目をして。
気がついたら、自分の部屋に戻ってきていた。
切符を買って電車に乗って、駅から歩いて、鍵を取り出して扉を開ける――ここに辿り着くまでに必要な事柄を、確かにした記憶さえない。今ここに自分がいるからにはまともに行動していたのだなと、無感動に胸のうちで呟いてそれだけだった。
薄暗い寝室を横切って、麻里亜はベッドに倒れこんだ。
「―――」
大きく、息をつく。視界を覆う色素の薄い髪を押しのけて、ごろりと体を反転させた。
目に入るのは灰色の天井。
その映像が、にじんだ。
「参ったな……」
聞かせるものなど誰もいないのに、その語尾がかすれるのが口惜しい。
ましてや人前で涙を見せるなんて。常の自分なら考えられもしないことだ。
――いつのまにかそういう、感情を抑えた振舞いをするようになっていた。
そう、たぶん、牙月を――真田を継いだ時から。魔物を斬る、そのたびごとに積もっていく疑念を、けして誰にも悟らせないため。深まる孤独を見せないため。
幼かった麻里亜に牙月を譲ることを、ぎりぎりまでためらっていた祖父に後悔させないように。自分が真田の力を持たないことをいつもすまながっていた母を悲しませないように。
(だから嬉しかったのに)
喧騒のただなかに在ってなお異質であることを、むしろ楽しむように振舞っていた手品師も、人外の能力を持ちながら人間だと笑った少年も、麻里亜には初めての真田でない同類だった。すべて判ってくれるだろう仲間だった。
――そのはずだった。けれど。
(違った)
ふたりとも魔物だった。ひとの生き血をすする吸血鬼。護り役たる麻里亜をだまして近付いて、そして裏切った。
だから。
斬らなければならない。
ころす。この手で。
(――どこが違う?)
ひやりと凍った手で触れるように、その思いはすべりこんできた。
(ひとの顔をして。ひとの暮らしをして。それでいて闇に生きる)
もうひとりの自分が冷めた目をして呟いている。
――同じなんかじゃない! 私は守護者だ。この街を護るためだから、闇にいる。闇に生まれついた化け物とは違う――
(牙月を手にしているかぎり同じ。ひとを喰らうのが化け物なら、それを狩るのは)
鏡映しの姿が揺らいで、黒髪の美しい鬼がそのかわりに微笑した。
白い手を差し伸べて。
言わなかったはずの言葉を告げる。
――仲間だよ、と。
「やめてくれ」
麻里亜は耳を塞いだ。それで閉め出せる声でないと判っていても、そうせずにはいられなかった。
逃げ出してしまいたかった。
なにもかも放り出して、幼い日々に還りたかった。
けれどそれが無理なことも知っている。
――牙月を継いだ、守護者だから。
麻里亜は目を閉じた。
せめて今だけ、ほんの少し、この現実から離れていたい。
意識を、ゆっくりと麻里亜は手放した。それは眠りに似ていた。
川を渡る風に細い髪を吹かせて、彼女はひとりきり立っている。
頬や腕に、赤い引きつれたような跡があった。あの、いまいましい男のオーラに灼かれた傷だった。
きり、とあやは歯がみする。あの男。とても腹が立つ。
同類の匂いがするくせに、どうしてか人間を庇う。呼びつけて痛い目にあわせてやろうと思ったのに、彼には幻術が効かなかった。それどころか、危うくあやの方が消されてしまう処だった。
ただでさえこの街には嫌な女がいて、あやたちには棲みにくいというのに。
それでもあやはここを出て行けない。
昔々封じられた竜神の子だからだ。ここに生まれた妖魔は皆。
あやは頬の火傷を撫でた。これも、もうすぐ治る。傍を流れる川が……竜神にいちばん近しい場所が、治してくれるのだ。
ふと、あやは顔を上げた。
聴こえるのは悲鳴だった。音をなさない、きしんだ心の叫び。そして絶望。
「泣いてるの?」
にっこりとあやは微笑む。
とても、おいしそうな心だ。
あの男のことは考えないことにした。たぶんこちらからちょっかいをかけなければひどいことにはならない。
「待っててね。すぐに行って楽にしてあげるわ」
気分が良くなった。この上なく優しく、あやは語りかけてやる。
注意深く場所を選んで、土手に腰をおろした。ゆっくりと力をたくわえよう。
傷なんてない、綺麗な姿で迎えに行ってあげるのだから。
ふっくらした、幼さの際立つ唇が、童謡を口ずさみ始めた。
古びたメロディが、川面を渡って消えてゆく。