五分ばかりの疾走ののち、幅広い河に行きあたった処で匡は足を止めた。汗一つかくどころか、呼吸にすら変調は毛筋ほども見られない。唯一やや乱れた髪を後方に梳きあげると、匡は眼下の河川敷を眺めやった。
そこに佇む人影はひとり。
挑戦的な視線をまっすぐに投げてくる、小柄な少女のみだ。
「こんにちは」
紅い唇をきゅっと上げて、少女――あやが言った。
「俺を呼んだね」
川下へ向いた石段を下りながら匡が問う。
「そうよ」
「何故」
「なぜ?」
おうむ返しに、あやは匡の言葉をくりかえした。
そうして、くすくすと笑い声をあげる。
「うそつき。よおく、知ってるくせに」
「さあ、何のことかな。俺は何も知らないけど」
「……本当にわかんないの?」
「全然判らないよ」
「ふうん」
あやはにこりと笑った。
――途端。
ざわりと空気がゆらめいた。
かァごめ かごめ かァごのなァかの とォりは
あやは唄っている。ゆうるりと。
みひらかれた眼は、ただ匡だけを映している。
いついつ であァう よあけのばんに
視界に白い霧が流れてくる。
抱かれるような快い浮遊間。
そして匡は、その声を聴いた。
「――匡」
つゥるとかァめが すゥべった うしろのしょうめん――
長い長いましろの髪。
何も映さぬあかい瞳。
折れそうに華奢な両手をまっすぐにさしのべて、愛した少女は微笑った。
「匡」
永い時のむこうで、はぐれてしまった大切な少女。
いとしいその名を……呼ぶ。
「……栞……」
だ あ れ
ぱしんっ――。
風船のはじけるような音が、急速に景色を引き戻した。
「……どうして?」
おびえたようにあやが一歩、後じさった。
目を細めて匡はそれを見遣った。
「判り易いね」
口許だけが笑みをつくる。
「ひとの一番の望みを視せて、告げて、自分の世界へ引きずり込む。俺があの子の手を取れば、それはあやの手なのだろう? そうなったら終わり。永遠に良い夢を見ながら、身体も心もすべて少しづつ喰べつくされてゆくだけ」
かつん、かつんと匡は階段を下りてゆく。
「――ばかみたい」
「俺が?」
「だってあやは、悪いことなんかしないわ。幸せにしてあげるんだもの。なのにどうして、わざわざつらいほうを選ぶの?」
「…………」
「ほんとうは淋しいんでしょう。哀しいでしょう。だからあやは呼んだの。あやが、眠らせてあげるわ」
重力に逆らって、あやの髪が肩から離れた。ゆらゆらと――さながら南の海の人魚姫のように。
濃いミルク色の霧が、再び視界を閉ざし始めた。
あやの結界だ。
「おやすみなさい、匡」
微笑んだあやの姿がかき消える。
代わりに現れるのは……。
「――匡」
なつかしい澄んだ声が名を呼んだ。
細い、ちいさな手がいざなう。幸せな夢の彼方へと。
「いっしょに、行きましょう」
雲の上を歩くような足取りで、白い少女は近付いてくる。
動かずにいた匡の胸許に頬を寄せて、ものを視ることのない瞳を閉ざす、その仕草も――ともに在った時そのままに。
「しおり」
やせた肩を匡はそっと抱き寄せた。
白髪の少女は、嬉しそうににっこりと笑う。
――その、一瞬後。
「きゃああ――ああああ――――っ!」
匡の腕の中で、全身を痙攣させて少女が絶叫した。
「いやあっ――いたいいたいはなして、はなして……っ」
狂ったようにもがく身体を包み込んで、青光が渦を巻いた。
オーラ、というものだ。精神的生命力と言い換えるのも可能だろう。これもまた、常人ならぬ身の証明。
青い焔と見まがう、匡の纏うオーラは、朔のような物質化の能力はない。彼の持つ≪特殊能力≫の発動媒体としての存在にすぎない。だがそれでも、直に触れる波動は化生のものには十分な苦痛となる。
「困ったお嬢さんだ。俺が何百年あの子を捜してきたと思ってる?」
穏やかな、いっそ優しげな声で匡は囁いた。
苦痛に歪んだ、腕にとらえた少女の姿が徐々に、その輪郭をぼやかしていく。匡の記憶を写した白い少女――栞から、本来の、あやのかたちへと。
「幻で栞の代わりにできるならとっくにやっている。俺の望みはあの子に逢うことじゃない。捜しているのは、約束を守る為なんだよ」
――必ず帰るから。
それが約束。最後の、そして果たされなかったただ一つの。
「だからあやは要らない」
その言葉と同時に、匡の腕の力がふっと緩んだ。戒めを突然解かれたあやはもつれる足で必死に匡から遠ざかろうとする。だが既に逃げる体力も残されていないのか、諦めたようにすぐに地面にへたり込んだ。
「……あやを殺すの?」
怯えた眼をして振り返る。その頬やむきだしの脛には赤い火傷のような跡が浮いていた。匡のオーラに灼かれた傷跡だ。
「いや」
無表情に見下ろして匡は否定の言葉を口にする。
「それは俺のすることじゃないからね」
「あや、逃げるわよ」
「逃げられないさ。あやはこの街から出られない」
「! ――意地悪……っ」
かっ、っとあやが怒りに頬を染める。
「あやネズミじゃないわ。そんな風に遊ばれるのは嫌。どうせあやを見逃す気なんかないんでしょう。判ってて嬉しくなんか全然ない!」
「――お仕置きだとでも言えばいいのか?」
ざわり、と匡のオーラが揺らめいた。
凍てついた焔。身を包む青光にそんなイメージが重なるのは、あやに向けられた声のぞっとするほどの冷ややかさのせいだ。
「それくらいのことはさせてもらうよ。これでもかなり頭にきてる……。俺に栞の幻なんか見せたのが失敗だと思いなさい」
それきり匡は口を閉ざした。
あっさりと踵を返して去っていく背を、唇をかみしめてあやはにらみつける。匡の姿が完全に見えなくなるまで、その視線が逸らされることはなかった。
足を止めさせたのは、洒落たブティックのショウウィンドウに映る姿だった。
すらりと細い肢体。白い肌。なめらかな黒髪にふちどられた、人形のように整った造作。どちらかといえば女性向けの賞賛の言葉が難無く似合う……まぎれもなく、映っているのは自分――高都匡の、十七歳のままの肉体だ。
……そう、映るのだ。
鏡も、ニンニクや十字架も、自分には何の効力も持たない。薔薇を愛でることも出来る。日光を浴びたとて、せいぜい日焼けが気になるくらいのものだ。
(心臓に杭打たれたら……さすがに無事じゃないか)
思いつきに、かすかに笑う。ガラスの向こうの少年も、正確に同じ動作をした。
複数の視線が己に常に向けられていることを匡は知っている。喧騒に紛れるにはその容貌は整いすぎている。驚嘆と賞賛、それに羨望――眼差しに込められた感情を分析するなら、そんな単語となるのだろう。
いつか自分たちを狩った人間たちの、畏れと憎悪の入り交じった目と、それはあまりに違いすぎる。吸血鬼というばけものに向けられた、あの血走った視線とは。
――それでも。
まだ自分がひとでいられるとは、匡には思えないのだ。
朔に語った言葉は嘘ではない。彼が人間で在りたいならそう在ればいい。
けれど匡は――
生きなければならなかった。
生きることと人間であること。
その両方を採ることは、あの時は許されなかった。人間であるために死ぬか、生きるために人を喰らう鬼となるか、どちらかを選ばねばならなかった。
多くの仲間が前者を選択して死んでいった。
迷わず鬼となった者も無論居た。
そして、愉悦にまかせて人を狩る彼らの歯止めとなるため、血の涙を流して生き続けた者も確かに居たのである。
――生きよ。
ひとつめは命。
――死んでは駄目。
ふたつめは約束。
――俺を置いていかないな。
みっつめは誓い。
だから匡はここにいるのだ。望むより先に義務として与えられた道だったけれど、それでも。
人でなくなった自分を認めながら狂いも、絶望もせず、社会から逃げることもなく。
(俺は生き続けられた)
ゆっくりと匡は空を仰いだ。
「ねえ――まりあ」
つむぐ言葉は、はりつめた目をした悲しい少女に向けたもの。
風に命ずればそれを彼女の許へ届けることも、匡には出来る。けれど今、彼の声を聴く者はいない。いないが故の、呟きだった。
「生きて行けるよ。きっと貴女もね……」
「……しまった」
往来のど真ん中で、瀬能朔は唐突に立ちすくんだ。
かなり人の行き来の多い通りである。いきなり立ち止まるでかい男は迷惑以外の何物でもない。どかすかと容赦なく人にぶつかられ、すいませんを連発しながら朔は慌てて人波を逃げ出した。
一息ついたところで、あらためて繰り返す。
「しまったよなあ……」
深い深いため息を、ひとつ。
ここが人前でなかったら、頭を抱えてしゃがみこんでしまいたい。それほどの困難に彼は行き当たってしまったのであった。
「――まりあん家って……どこだよ?」
……笑ってはいけない。彼は大真面目である。
チイッ。
突如耳元で、甲高い鳥の鳴き声がした。
「うひゃっ!?」
思わず力一杯のけぞってしまってから、朔は体勢をたてなおして声の主を捜した。あまりに驚いたせいで息まで荒いのが少々悔しかったりもする。
「――なんだ、ぴい助かよ」
正体は、匡の連れている小鳥だった。幸福の青い鳥だと彼がよく笑って言うように、その羽は柔らかな青だ。
ぴい助というのは勿論朔が勝手に呼んでいる名前である。匡は匡で何やら可憐な名をつけているようなのだが、憶えにくいのでこれで通しているのだ。
手を差し伸べると、小鳥は素直に降りてきた。
「なあ。まりあん家知らねえ? ぴい助」
思わずそう尋ねたのには、藁をも縋るというよりはやや強い理由がある。
この小鳥は、匡の眼なのだ。現に朔が麻里亜との出逢いを果たしたのも、この小鳥の持ち帰った情報から匡が麻里亜の居所を割り出したからだった。だが問題は、匡のいないこの状況では小鳥との意思の疎通はままならぬだろうということだ。――自分は匡のような魔法使いではないのだから。
「うーん……やっぱ日本語通じねえのかなあ」
「ピィ」
肩を落とした朔に応えるように一声鳴くと、小鳥は再び青い翼をひろげた。飛び去るかと思いきや、くるくると頭上を舞っている。
目を円くして朔が見上げていると、それに上下運動が加わった。ばさばさと羽音を立てて朔の目線の位置まで降りてきては、また上昇と旋回を繰り返す。
「……ついてこいって?」
半信半疑の台詞に、そうだと言いたげな高い鳴き声が返ってくる。
「よっしゃ。信じちゃる。どうせ他にできることないもんな」
にッ、と朔は笑った。そして走り出す。
幸運をもたらす、青い小さな鳥の後を追って。
「じゃあ……母さん」
肩越しに、半歩後ろに立つ女性を麻里亜は振り返る。
「来月また戻ります。元気で」
「からだに気をつけてね」
「母さんも」
「ええ。ありがとう」
見送ることはせずに香子は屋敷へ姿を消した。それが暗黙の約束だった。
真田の本家は郊外の古い住宅地にある。歓楽街を含む市街地からは遠い。人間を糧とする妖魔がそのような人の多く集まる場所にひきよせられやすいのは自明の理であるから、護り役たる麻里亜もまた市街地近くに常にいる必要があった。
それでも高校入学までは、祖父も母も一人暮らしは認めなかった。選択権を与えられたのがようやく半年前。以来、通いの家政婦を除けば一人で麻里亜は生活している。
これからその部屋に戻るのだ。気が重くないと言えば嘘になる。嫌って出た家ではないのだから。香子がけして未練をそぶりに出さないのも、娘の心情を思ってのことだ。
「――――」
何かが麻里亜に顔を上げさせた。
知っている気配?
「う、わ……」
その人物名に麻里亜がたどりつくのと、当の本人が前方のブロックの塀を曲がって姿を現したのがほぼ同時だった。
「凄え。本当に逢えちまった……」
「瀬能?」
いたく驚いた様子の瀬能朔に、麻里亜はぽつりと声をかけてみる。
慌てたように目を見開いて、朔は表情をひきしめた。
「ごめんっっ!」
おそろしい勢いで頭を下げられても、何がなんだか判らない。
顔は伏せたまま朔は怒鳴るように言葉を続ける。
「昨日は悪かった。なんか悪いこと言っちまった。俺馬鹿だからさ、何が言っちゃいけないことだったのか本当はまだ判ってねえし、そんなんで謝っても余計に気、悪くさせるだけかもしれねえけど、でもとにかく、ごめん。悪かった。ホントに」
「――――」
なんて不誠実で、そしてやさしい謝罪。
麻里亜は慌てて瞬きをした。でなければ涙腺が緩んでしまいそうだった。
(話せるだろうか?)
話してしまおうか、彼に。ずっと一人抱え込んできたひとつの想いを。
不思議な力を持ちながらなお、強い瞳と屈託ない笑みを持つこの少年ならばあるいは、答えを与えてくれるかもしれない。
「瀬能。頭、上げてくれ。もういいから……」
身体を起こすと、長身の朔は麻里亜を見下ろすかたちになる。なんとなく居心地が悪そうに、朔はもう一度口の中で、ごめんな、と呟いた。
少し歩こう、と促したのは麻里亜のほうだった。真田本家から、少し離れていたほうが良いと思ったのだ。実は、結局瀬能朔との遭遇については麻里亜は祖父に語っていない。
その確たる理由は見つからないが、ただ機会を逃しただけだと麻里亜は思っている。
「独りが淋しいかと、訊いたろう」
「うん」
「それは……瀬能が思うほど、大きなことではないと思う」
並んで歩きながらの会話だから、互いの目線は重ならない。
それでも横顔に一瞬、視線が注がれたのは判った。
本当にそうなのかと、その目線は問うている。
「そう……たとえば、学校の友人にこんなことを話せはしないな。だが真田の家にあって、私はけして孤立はしていない。私のもつ牙月の継承者としての力は祖父にもあるし、分家の人間にも妖魔を視るぐらいはできるものもいる。だから、独りでは、ない」
「――――」
「けれど最近、ふと考える。私の斬る妖魔は、人を害し、人を喰らうものだ。ならばそれを追う私は、果たして何なのか……と」
麻里亜は目を伏せた。長い睫毛が陰をつくる。
「ひとと、ばけものと、どちらにより私は近いのか――判らなくなった。もしかしたら私は、自分の敵を護り自分の同胞を殺めているのかもしれないと……思うと、たまらない」
「つみびとって、そういうことか?」
朔の問いに麻里亜は静かに首肯した。
いつのまにか歩みは止まっていた。麻里亜の、下方におとした視線が流れて、自らの手に握られた絹の袋に留まる。
つややかな、高価な絹布をすべらせると、古めかしい日本刀が姿を現すのだ。
牙月。魔を喰らう、退魔の剣。
真田という家を、何よりも端的にあらわすもの。
「……かぞえきれない悲鳴を聴いた。いくつもの肉体をこの手で砂に変えてきた。私が奪った、あれもいのちだ」
「まりあ。あのさ、俺の相棒が言ってたことだけど」
麻里亜の淡茶の瞳を覗き込むように、朔は背をかがめる。
呼ばれた名に反応して麻里亜は面をあげた。
ふたつの視線が、絡んだ。
一陣の風が、麻里亜の淡い色の髪を舞いあがらせた。
季節にそぐわぬ、凍てつくような突風。
かつり、という革靴の足音を聴いたのは多分ふたり同時だったろう。
頭上で青い鳥が声高に鳴いた。足音の主は左手を宙にさしのべて鳥を呼んだ。
舞い降りる小鳥の姿を、麻里亜はゆっくりと目で追った。
そうしてたどりついた先――
「こんにちは、まりあ」
綺麗な綺麗な微笑み。
どうして出逢うたびに、この手品師はこうも美しく笑むのだろう?
「偶然だね。憶えていてくれたかな、幸運に愛されたお嬢さん?」
忘れるわけがない――とでも。言おうとしたはず、だった。
けれどその前に聴こえた言葉が、麻里亜の唇を凍りつかせた。
「匡。なんだよ、用事ってこのへんだったのか?」
驚いてはいるものの、あきらかに親しげに瀬能朔が現れた手品師に――あの夜の美しい鬼に語りかけている。
「まあ、そんなところかな」
「かわいくねえ返事。たまにはイエスかノーで答えらんねえの?」
じゃれあうような会話がふさぎたい耳に届く。
くるりと振り返り、朔は麻里亜に笑いかけた。
「まりあ。こいつがさっき言いかけた俺の相棒。一回逢ってんの、知ってるけど、あの時名乗ってないと思うから一応紹介しとくな。匡、っつうんだけど」
「朔。人を紹介するときはフルネームを言ってほしいな」
呆れたようにひょいと肩をすくめて朔を見遣り、それから彼は麻里亜に歩み寄った。
白い手を差し出して、今一度にっこりと微笑う。
「先日はどうも……。高都匡、です。よろしく」