Century20 CARD ONE ―魔術師のいる街―

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ACT 1

 かちゃり、と静かな音を立ててマンションの扉が開いた。
「よお。お帰りー」
 突き当たりのリビングに寝転んで瀬能朔は頭だけねじ向けてそう声をかける。やや不鮮明な語調は、口にものを入れたまま喋っているせいだろう。ガラステーブルの向こうでテレビが賑やかだ。
「今日の首尾は?」
「まあまあかな。収入に限って言うならね」
 含みのある答えをかえしてキッチンに消えたのは謎の手品師こと高都匡である。黒服に茶のショールという格好はそのままだが、シルクハットと白手袋はさすがに手にしていない。雑踏で手品を見せる時はともかく、そのままの格好で電車に乗るなどしたらどう見ても立派な変人だ。今日のように休日街中でパフォーマンスをするのは稀なことではないので、たいてい匡は彼の言う「商売道具」を繁華街の最寄り駅のコインロッカーに置いている。
「コーヒー淹れるけど。飲む?」
「おう。うまいやつな」
「信頼しなさい」
 短い会話のあと、水音とケトルを火にかける音が続く。朔はテレビに向き直った。かすかな足音が遠ざかるのが聞こえた。着替えにでも行ったかな、と考える。
 テレビのバラエティー番組が虚ろに部屋に笑い声を響かせた。
 不意にそれがやかましい雑音に思えて、朔はリモコンに手を伸ばした。ぷつんと音を立ててブラウン管が音を失うのと同時に、リビングに静寂が訪れる。
 手近なクッションを朔はソファからひきずり落とすと、それを抱え込んでまるくなった。すぐに静かな寝息が聞こえ始めた。
 ――数分後。
「おやま……寝付きのよろしいことで」
 コーヒーの芳香を伴ってリビングに入ってきた匡は、足元の物体を見下ろしてぼそりと呟いた。ガラステーブルとソファとの隙間にむりやり体を突っ込んだという風情で長い手足を折り曲げた、かなり寝るには不自然な体勢で、よくもまああっさり眠り込めるものだ。幼児か猫ではあるまいに。
「こら。コーヒー入ったよ。起きなさい」
 おざなりに声をかけ、両手に一つずつ持ったコーヒーカップをテーブルに載せて、匡はソファの朔の頭側に腰を下ろした。
 組みあわせた膝の上に、頬杖をついて。
 よびかける。
「朔。……はじめ」
「…………」
 目を覚ます気配のない朔の顔を眺めながら、匡は白いカップを口許に運んだ。
 やさしい沈黙。
(続くといい)
 こんな穏やかな日常が、ずっと。
 ――それはかなわぬ祈りだと、判ってはいるのだけれど……。


 声がきこえる。
(朔)
 綺麗なテノールの。ずっととなりで聴いていたからかうような声音。
(……に、………か)
(……一緒に行こうか)
 さしだされた手に応えたその時、自分は彼といることを選んだのだ。
 もうずいぶんと前の話。
(一緒に)
 まりあと言った。あの少女。
 彼女にも、同じ台詞を匡は言うのだろうか。
(誰かに逢いそうな気がするよ。――朔)
(だから、おいで。見ていて)
(見つけてごらん。それが、誰か)
 そうだ、すぐに判った。多分匡が声をかけるより早くに。
 人込みの中ひとりきりに見えた美しい少女から、目が離せなくて……。

「……ありゃ?」
 目が醒めたら真っ暗だった。
「夜? ――マジ!?」
 がばと跳ね起き――ようとしたら、顔になにかひっかかった。ひっぺがして頭をぶるんと振る。暗闇がかき消えた。
 朔は自分が手にしたものを眺めやって、ちらりと舌を出した。早とちりの原因はこの毛布か。
 あらためて時計に目をやると、針は五時二十分を指していた。匡が戻ったのが四時半をまわったあたりだったから、一時間近く寝ていたことになる。
 サイドテーブルの上で、口をつけられぬままカフェオレが冷めていた。眉をしかめて、白いカップに手を伸ばす。
(なんか……夢、見てたな)
 なまぬるい液体を飲みほしながら、胸中で朔は呟いた。
 ストーリー性のない、途切れ途切れの夢だ。あまり、内容は憶えていない。ぼんやりとした二人分の顔、ぐらいしか。
 茶色の髪の美少女と、もう一人――
「目が醒めた?」
 絶妙のタイミングで、その「もう一人」が背後から声をかけてきた。
「あまりにも気持ちよさそうに寝てたから、起こすのも気の毒だと思ってね。――コーヒー、淹れ直そうか」
「や、いいわ。あと匡、毛布サンキュな」
「どういたしまして」
 笑みを返しながら、匡はソファごしにかがみこんで空のコーヒーカップをとりあげた。
「それはそうと朔。判った? 俺が今日誰のことを言ってたのか」
「……おまえ俺馬鹿にしてんの? あれだけ過剰演出しておいて俺が気付かないと本気で思ってんなら、いいかげん縁切るぜ」
「ふうん? おかしいな、その程度で切れるような縁ならとっくの昔に切れてると思ったんだけどな……ああ、悪かったよ、まあそう睨まないで」
 おどけたようにひろげた両手を挙げてみせて――右手のコーヒーカップのせいでやや不自然な仕草にはなったが――いっこうに悪びれない様子で返答すると、くるりと向きを変えて匡は台所に足を運んだ。
 カップを洗う水音に混じって、テノールがまた問いを発した。
「それでどう? 朔の感想は」
 彼の癖の、省略と倒置のかたちの短い台詞に、にやりと笑って朔は一言で答える。
「いい女」
「確かに相当な美人だったね。あそこからでも見えた?」
「別に俺、外見だけ言ってんじゃねえけど。なんとなく雰囲気がさ、お近付きになりたいって感じの」
「俺には、あまり人を寄せ付けない感じがしたけど……どうかな」
 肩越しに振り返って、匡はかすかに首を傾げた。
 つうかさあ、と朔は言葉をさがす。無意識にかきあげた手が柔らかい黒髪にゆるくくせを残した。
「――だから、だろ」
 結局うまい表現は見付からなかったようである。
 しばらく眉を寄せて考え込んでから、そのままの表情で朔はぽつりとそんな言い方をした。
「……なんとなく判るよ」
 匡はふっと目を細めた。
 表現力にやや難がある感はするが、朔の人を見る目は相当確かだ。その彼の印象でいけば、あの少女――「まりあ」は好ましい人物の、それも上位にランクイン、ということになるだろう。
 ただ……と匡はさとられぬ程度に顔をくもらせる。
 彼女がはたして自分たちに好意を抱くかどうか、それはまた別問題なのだ。

 チチチ、とかすかな鳴き声がした。
 身軽な動作で朔は立ち上がると、ベランダに続くガラス戸を引き開けた。
 間髪を入れず、青い翼の小鳥が室内に飛び込んできた。
「匡ー、ぴい助帰ったぜ」
「ぴい助って、あのね……」
 あきれたようなまなざしを匡は投げたが、すぐに真顔に戻ると細い指をさしのべた。小鳥が嬉しげに一声鳴き、その上に舞い降りる。
 空いた片手の指で匡は鳥のひたいにそっと触れた。
 短い沈黙。
「朔」
 名を呼ばれて朔が振り返る。
「彼女の居場所が判った。お近付きになりに行っておいで」
 幸運の青い小鳥が、チイ、と声をあげた。

 茜色に染め上げられた大気を切り裂くようにたたずむ少女が、一人。
 夕日の照らすその美しい容貌から、今は表情というものが抜け落ちている。
 昼間とは違う紺の上下の制服姿で、真田麻里亜はついと顔を上げた。
 一陣、風が渡って、胸元のスカーフを揺らす。翻ったその色は漆黒。じきに街を包み込む、闇をあらわす色、だ。
 自分には似合いだと麻里亜はふと、考える。けれどそれも一瞬のこと。
 こつりと靴を鳴らして、ゆっくりと、麻里亜は足を踏み出した。
「無意味なことを、する……。逃場はないと言った筈」
 不自然なまでに、あたりに人影は絶えてなかった。繁華街から少し離れたオフィスビルの立ち並ぶ通りであれば、今時分は会社帰りの人間でにぎわうのが当然だ。現に一ブロック隔てた通りからは、絶え間なく人声が流れてくる。
 けれど今麻里亜の立つ細い路地に、踏み込んでくる人間はいなかった。まるでその空間だけすっぽりと切り取られでもしたように。――麻里亜と、彼女の視線の先にいるもう一人を除いては。
「……嫌だッ、く、くるな、来るなあっっ」
 無感動な麻里亜の台詞に、叫ぶようにその人物は答えた。二十歳前後といったところか。
 ちょっと見にはごくごく普通の大学生である青年の、恐怖に顔を歪めあとじさる姿は、一種異様な光景ではあった。だが麻里亜はわずかに眉をひそめただけで、その表情を微塵も崩そうとはしなかった。
「いやだ、嫌だ嫌だ助けてくれ」
 懇願する青年の声がひどく乱れているのは、さいぜんまでの全力疾走の結果である。しかしその彼を追ってきたはずの麻里亜の肩は揺れもしない。
「無駄だ」
 右手をもちあげて、低く、美しい少女は宣告する。
 夕陽をはねかえして銀に光る、それは、一振りの抜き身の日本刀だ。
「――覚悟」
「いや、だ……っ」
 麻里亜がそれを正眼に構え直したのと、男の形相に変化が生じたのが、同時だった。
 表情が変わったのではない。顔そのものが、かたちを変えたのだ。肌が、青黒く染まる。口が裂けるように大きくなり、四本の犬歯が牙と呼んでさしつかえないほどに大きく、伸びた。
 そして――額の中央をめきりと貫いて、太い角が現れた。
 人ではありえぬ、魔物の姿。古来より人が『鬼』と言い伝えてきたものに、今では完全に青年は変化していた。
 その様子に、一瞬麻里亜が目を瞠る。――そこを、狙われた。
「…………!」
 かっ、と光が炸裂した。
(しまっ……)
 とっさに両腕で顔をかばいながら、麻里亜は唇をかんだ。余計な時間を与えすぎた。火事場の馬鹿力というやつか。この至近距離では、死なないまでも相当なダメージは避けられない。
 ――避けられないはず、だった。
 しかし。
「…………?」
 自らを襲うはずの衝撃波が、背後の壁にダゥン!! とはじける音を聴いて、麻里亜は顔を上げ……そして、見た。
 すきとおった真紅の光芒を全身にまとった、長身の影と――
 その同じ赤光に左胸を貫かれ、絶命した鬼の姿を。
 がくりと首を垂れて、次の瞬間、鬼の――かつては人間のかたちをとっていたものの――身体が、またたく間に風化した。ざあ……という音のあとには、ひとかかえほどの砂粒が残っただけだったが……それも風に吹かれ、あたりに散った。
 死ねばその痕跡も残らない。それも、人外の存在――『魔』の、証拠だ。
 いつもなら、目をそらす光景だった。あまり、見て気分のいいものではない。たとえその結果を導いたのが間違いなく自分であっても。
 けれど、今、麻里亜は視線を外せずにいた。わずかに残った砂粒、ではなく――その手前、たった今、その身体を包んでいた紅い光を消した人物から。
 強固に作り上げたはずの結界に入りこんで、あっさりと麻里亜の身を救ってみせた、長身の背中から。
「――大丈夫だったか?」
 ふいに、それまで沈黙を守っていたその人物が、くるりと振り向いて尋ねた。逆光で顔がよく見えない。だが声の感じからすれば、十七、八――ほぼ自分と同年輩の少年に思えた。
 そこまで考えて、初めて麻里亜は先刻の問いが自分に向けられたものだと気付く。
「ああ、無事だ……助けられた、すまない」
「そっか。良かった」
 ほっとしたように少年の声が答える。
 依然として表情は見えなかったけれど、それでも麻里亜には彼が微笑んだように――思えた。
(同じなのだろうか?)
 ぽつり、と、胸の内にそんな言葉が浮き上がる。
(仲間を、見つけたのか――私は)
 私は……?

「ああ、そうか、これはもういらないな……」
  右手の日本刀に目を落として、まだ感情が完全には戻らない単調な声で麻里亜が呟いた。
「え?」
 少年の疑問の声に直接は答えずに、麻里亜はあたりに視線を走らせた。数歩先の、置き去りにされた鞘を拾い上げる。
 律義についてきた少年が、麻里亜が手にした日本刀を無造作にその鞘におさめるのを見て目をまるくした。とても驚いたようすで。
「――なにか?」
 移動したせいで表情がよく見えるな、とあまり関係のないことを考えながら、麻里亜は背の高い少年を見上げて、逆に問い返した。
「や、だってさ……警戒しないの? 俺のこと」
「恩を仇で返す、と言わないか、それは? 大体私に敵対するなら先刻放っておけば良かっただろう」
「だから油断させといて近付く手、とか」
「…………。本当にそのつもりなら普通言わないな、そういう台詞は」
 くすくすと笑いながら、うわめづかいに麻里亜が言う。まーたしかにねー、と少年は肩をすくめてみせた。
「それともう一つ、この刀――『牙月』というんだが、これがレーダーの役目も果たしていて……」
「レーダー?」
「そう。共鳴とでも言うかな……半径二十メートル以内くらいに、妖魔のたぐいが近寄ると音を発して、判るようになっている。こちらからはたらきかければもう少し範囲を広げることも可能だが。――それで、先刻はそれがなかったから」
「俺が人間だと判断した、と」
 後半の台詞を少年が引き取って言った。
 うなずいて、さらに麻里亜は続ける。ひどく真剣な顔で、まっすぐに少年と向かいあって。
 ゆっくりと問いかける。
「だが普通の人間でないことも、判る……同じものなのだろう、私たちは?」
「うーん……あんたのこと俺はよく知らねえけどさ」
「…………」
「俺には変なモノが見えるし、変な力が使える。だからそれ使って、人間に危険な奴等――さっきあんたの言った妖魔って奴を、やっつけてまわるのが俺の仕事だと思ってるし、実際ずっとそうやってきた。……そういう意味なら、多分あんたと同類なんだろ」
「――ああ」

  大輪の花が咲くように。
  とてもきれいに麻里亜が笑った。

「出逢えて嬉しいよ」
「こっちこそな」
  さしだされた右の手を少年は力強く握りかえす。
「俺は、瀬能朔って言うんだけど。ついたちのサクの字ではじめ」
「まりあ。真田麻里亜――だ」
  簡潔な自己紹介。他に何も、訊こうとは思わなかった。十六年目にして初めて見付けた仲間、それだけで十分だと思ったから。
「綺麗な名前だな。まりあって呼んでいい?」
  人なつっこい笑みで、少年――瀬能朔が言った。
「光栄だな。もちろん構わないが」
  答えた麻里亜の淡い茶の髪が、さらりと風に流れる。
  ――太陽が、ビルの谷間に姿を消そうとしていた。

 高都匡は、ふと読みかけの本から顔を上げた。
 ぱたん、と本を閉じ、ソファから立ち上がる。視線の先で、ベランダに通じる窓にかかったカーテンがゆらゆらと揺れていた。つい先刻、細めに開けておいたそこの窓から、ふわ、と風が舞い込んできたばかりだった。
 その窓まで匡は歩み寄ると、カーテンを一杯に開いた。都心部に程近いマンションの七階からは、林立するビル群の上に広がる藍に染まり始めた空も比較的良く見える。
 瀬能朔が今この場にいたなら、少しずつ色を変えてゆく空を無言で眺めやるその瞳が、澄んだ青色を帯びていることにも気付いただろう。
「…………」
 声を立てずに、匡は静かにわらった。

(出逢えて嬉しいよ)

  風が運んできたのは、アルトの声音のそんな言葉。
  ……それでは、かれらは間違いなく逢えたのだ。
  微笑みの交わされる、幸せな偶然……に、見えるはず、の。
  けれどそう遠くない未来に彼女は気付かねばならない。そこに偶然などはじめから存在しなかったということに。
  けれど必然でもありえない。意志だ。
「怒るかな、朔は……」
  問いとも独白ともつかぬ呟き。
  きっとこんなやり方は気に入らない。彼には。どこまでもまっすぐな、瀬能朔という人物には。
  ――それでも。
  見えてしまったことに、目はつぶれない。

  くるりと匡が踵を返した。黒髪が舞う。彼方の空の稲光のように音もなくひらめいて、白い両の手が残像をのこす。
  花吹雪のごとくに虚空に散るのは七十八枚の古風なタロット・カード。
  ひゅん、ともう一度、しなやかに右手が動いた。

  WHEEL OF FORTUNE――
  「運命の輪」。今なにかが変化する。

  空中から一枚だけ拾い上げた、風車のような絵柄のカードを、匡は目の高さに持ち上げた。
(運命?)
  首を傾げる。唇が、嗤いをかたちづくる。
  神のみぞ知る、か。――いや。
「神様も御存じないんだろうね……これは」
  ひらりと。
  フローリングの床に、細長いカードが一枚、――落ちた。



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