ふりさけ見れば春日なる

「まもなく、――」
 車内アナウンスが、郷里の名を告げた。
 圭子はうん、と伸びをすると、網棚からボストンバッグを下ろした。
 大晦日の下り新幹線は帰省客で溢れかえっている。圭子と同じくこの駅で降りる乗客が一斉に支度を始め、車内は一気に賑やかになった。席のあちこちから元気な子どもの声と、疲れのにじむ親の声が聞こえてくる。
(……大変だわ)
 他人事ながら同情を感じて圭子は嘆息した。そうしてから、そんなことを考えたのは初めてかもしれないと思い至り、先刻とは色合いの違うため息をもう一度、ついた。

 乗換の改札を抜け、古びた在来線に乗り込む。二十分ほど揺られて着いたそこが、圭子の育った土地だった。
 駅員が一人しかいない小さな駅を出ると、冬には珍しい暖かな日差しが降り注いだ。眩しさに目を細めながら空を見上げる。ピリピリと頬が切られるようだった東京の早朝とは、なんて落差だろう。体を包む空気にもしっとりと水を含んだような匂いを感じるのは、瀬戸内の土地と思うからだろうか。
 そんな空気の匂いや、新幹線を降りたときからそこかしこで聞こえ始めた土地訛りに、帰ってきたのだという実感をかみしめるのも毎年のならいだった。
(でも、一番なつかしいのは――)
 圭子は見上げる視線のまま小さく微笑んだ。
「やっぱ、空じゃねぇ……」

◆ ◆

 圭子が初めて東京に行ったのは、大学受験のときだ。
 ――空ばっかり。
 それが関東平野の風景に対する、圭子の感想だった。
 圭子の生まれた街は、瀬戸内海と中国山地に挟まれた土地柄だ。南を見れば島々の浮かぶ海があり、北を見ればなだらかな山が迫る。宅地の多くは丘陵にへばりつくようにして拓かれ、圭子の両親が買った家も例に漏れない。
 だから圭子にとっての空は、山の上にあるものだった。太陽も月も星も、山から上がって山に沈んだ。
 東京に進学し、そのまま就職した圭子は、もう十年近く東京で暮らしている。それでも、広すぎる空に対する違和感は拭えないままだった。
「視界に山がないのってなんか落ち着かないんですよね。空は上のほうにしかないものだったし。こっちって目線の高さまで空があるでしょ、なんで? って思っちゃう」
 俊輔のことをまだ『先輩』と呼んでいたころ、なにかでそういう話をしたことがある。
 東京生まれ東京育ちだという俊輔は、面白がって笑ったものだった。
「俺に言わせると、そんなに近くに山が見えるのが『なんで?』って感じだけどなぁ」
(……俊輔)
 鼻の奥がつんとする。
 それは今の圭子には、思い出したくない――けれど脳裏から離れるはずもない名前だった。

◆ ◆

 結婚してほしい。
 俊輔のプロポーズの言葉は実に率直だった。それはなんとも彼らしくて、圭子はそんな彼がとても好きだった。
 職場の先輩後輩として知り合い、恋人の関係になってから三年。一言で言い表すなら、居心地のいい相手、というのが俊輔という男だった。自分の隣に俊輔以外の男性がいる図がもはや想像できないほど、圭子にとって俊輔は「しっくりくる」存在だった。
 それでも――イエスと即答することは、どうしてもできなかった。圭子本人にすらそれはショッキングな事実だった。
「……考えさせて」
 しばらくの沈黙のあとにそう絞り出した圭子に、俊輔がどんな表情を向けたのか、顔を上げられなかった圭子にはわからない。
「いいよ。待ってるよ」
 ただその声は、いつもの彼のものと同じで、とても穏やかだった。
 その後一度も俊輔と連絡を取ることのないまま、圭子は東京を離れた。帰省は前からの予定だったのだから、と自分に言い訳をしながら。

◆ ◆

 実家のリビングでは、両親と妹が一服の最中だった。
「あんたはいっつも大掃除終わったころに帰ってくるんじゃけぇ」
 母親のあきれたような顔に首をすくめて見せながら、土産菓子をテーブルに置く。早速お茶請けに追加された煎餅を全員でかじりながら、互いに近況報告をするのも恒例行事だ。
「お姉ちゃん、付き合っとる人おるんじゃろ? そろそろ結婚せんの」
 ニヤニヤ笑ってそんなことを言ったのは四歳離れた妹だ。内心どきりとしながら、圭子は妹の頭をぺしりとはたいて答えにした。両親はそんな圭子の様子を見て、ほっとしているような残念がるような複雑な面持ちで顔を見合わせ笑った。

 母親を手伝って御節の仕上げをし、紅白歌合戦を見て、年越しそばを食べながら除夜の鐘に耳を傾け、日付が変わると全員でおめでとうを言い合う。いつもと同じ大晦日の夜が終わって、圭子は布団にもぐりこんだ。
 冷たい布団の中で、膝を抱えるように丸くなる。眠れる気はしなかった。

 俊輔のことは好きだ。結婚相手として彼以外を考えることなどできない、と思う。
 けれど――
 故郷を離れてからもずっと、圭子の片足はこの土地を踏んでいた。ここが、あの空が、圭子の帰る場所だった。
 俊輔と結婚すれば、空ばかりに囲まれた街が、新しく自分の帰る土地になる。
 圭子はそれが、どうしようもなく怖いのだ。

◆ ◆

<あけましておめでとう。今電話いいかな>
 俊輔からのメールが届いたのは、元日の夜更けのことだった。
<あけましておめでとうございます。ごめん15分待って>
 風呂あがりだった圭子はそう返すと急いで髪を乾かし、パジャマにカーディガンを羽織ると、足音を忍ばせて一階におりた。リビングの明かりをつけ、電子レンジでミルクを温め、スイッチを入れた炬燵にそれを持ってもぐりこむ。この家で夜中に電話をするときの習慣だ。
 炬燵が充分温まったころに、俊輔が電話をかけてきた。
『あけましておめでとう。そっちは寒くない?』
「おめでとうございます。昼もずっといい天気だったし、ぬくいよ」
 電話越しでも変わらない、穏やかな声が、圭子をふわりと包み込む。温めたミルクよりも確かに圭子を温める。
「そっちは? 晴れとる?」
 電話の向こうで俊輔がぷっと笑った。
『圭子、訛り』
「あー!」
『いいよ、新鮮。それで喋って』
 笑いの余韻を残した声で俊輔が言う。
「もー。家帰るとすぐうつるんよ。母さんの訛り、きついんじゃけえ」
 わざと大げさなイントネーションで喋ってやると、こらえきれないというように俊輔が本格的に笑い出した。

 結婚の話はどちらも出さずに、とりとめもない会話が続く。御節や雑煮の中身は何だったとか、初詣に行った神社で引いた御籤の結果だとか。
 それは圭子の一番好きな時間のはずだったのに、今日だけは違う。
 言葉が胸につかえてうまく出てこない。
 圭子は携帯を何度も握りなおしながら、懸命に電話の向こうに耳を傾けた。
 俊輔はそんな圭子を気遣うように、いろいろな話題を探してはのんびりと語りかけてくる。高くもなく低くもない、心地のよい声が圭子の鼓膜をやさしく打つ。
 隣に彼の体温がないのが寂しかった。
(……一緒に、いたいのに)
 自分が悔しくて、閉じた目から涙がこぼれた。

『――あ』
 ふいに俊輔が声を弾ませた。
『圭子。窓の外、見られる?』
「え? なに?」
『月、月』
「つき?」
『とにかく、空見て』
 俊輔がこんな風に急かすのは珍しい。携帯を耳に当てたまま圭子は庭に面した窓を三分の一ほど開け、首を突き出して空を見上げた。寒風が頬を刺す。
「わ!」
 思わず声が上がった。
 暗い冬空にぽっかりと浮かんだのは、皓々とひかる満月。

『綺麗だよね』
「綺麗じゃねー……」

 電話口の向こうとこちらで、出てきたのは同じ言葉だった。
「ふふふ」
『はは』
 どちらからともなく笑いあう。
 圭子は思い切って窓を大きく開け、サンダルを突っかけて庭に出た。寒さに身震いしながら、あらためて夜空を見上げる。
 くっきりと輪郭の濃い満月が浮かぶのは、山の稜線の形をした漆黒に切り取られた、狭い空。圭子のなじんだ空。
 電話の向こうでいま俊輔が見上げているのは、ネオンの照り返しでぼやけたように明るい東京の空だ。
 けれど、そこに浮かぶ月は同じ。
 同じ月を見ている。
 同じように見上げて、綺麗だねと笑える。
(……そっか)
 なにかがすとんと腑に落ちた、気がした。
「三笠の山にいでし月かも――だっけ」
『百人一首?』
「ん。あれ詠んだ人って、中国から帰ってこられんかったんよね。それに比べるなら日本なんか狭いかなあ」
『圭子ぉ?』
「ううん、独り言。あのね俊輔――」
 深呼吸。
 しんと冷たい、けれどどこかしっとりとやさしい故郷の空気が肺いっぱいに満ちて、圭子を励ました。

「四角い焼餅の入ったお雑煮、食べてみたいな」

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