白珠の巫女

STAGE 18


 バルコニーの扉を、今度は自らの手で押し開けたとたん、喧騒が引き波のように静まっていくのがわかった。
 先刻までのドレス姿とはとはがらりと変えた男装に面食らった眼差し、あるいは面白がる目、多種多様な視線にさらされながら、律動的な足取りでクリスは手摺のすぐ手前まで進み出た。
 騎士隊式の礼は、やはりこの姿だからこそきちりと決まる。婦人方が、ほう、とため息をつくのがいくつも重なって、会場の空気をさざなみのように揺らした。
「皆様、たいへんお待たせいたしました」
 ゆったりと見渡した視界の端に、両親の姿を認める。どこか残念そうな苦笑を浮かべている母マリアティーザの隣で、チャールズ=グレン国務卿はにやりと性格の悪そうな笑みをクリスに送ってよこした。
(やっぱり仕組みましたね、父上)
 心中で恨み言を呟きながら、同時に感謝もしていた。
 気がつけばどれほどたくさんの人が、自分の背中を押していてくれたことか。
 にこりと笑って、クリスは芝居がかった動きで斜めうしろをかえりみた。
「あらためて、ご紹介いたします。わが剣をお預けするかた、白の宝珠の巫女、エアリアス=セシル=ラフィード」
 差し伸べた手にしなやかな指先をゆだねて、優雅な動きで扉の内側からエアリアスが歩み出た。
 シャンデリアの光に、本来の輝きを取り戻したプラチナの髪がきらきらと煌めく。身体の線を出さない装束は、聖職に相応しく清楚で、けれどもどんなドレスにも劣らず巫女の神秘的な美貌を飾る。額に咲いた銀の花は、見間違いようもなく、フェデリアでたった八人しか許されぬ巫女のしるしだ。
 息を呑むような沈黙が迎える。もう一年近くも、巫女として周囲を欺き続けたエアだ。その変わり身はクリスをはるかに上回って見事だった。
「……わたくしの我が侭で、お騒がせいたしました」
 はにかむように、巫女は観衆に微笑んでみせた。
 それひとつで空気が変わるような、やわらかな笑み。
「どうしても、この場に潜りこみたかったものですから。私の騎士に、無理を言ってしまいました」
 軽く首を傾げて視線を向けてくる巫女に笑いかけ、クリスは台詞の先を引き継いだ。
「今宵私がドレスを着るというので――なにせ、女装など久しぶりなものですから、ぜひ見物に来たいとお望みになりまして」
 女装、という表現に会場がどっと沸く。スタインの令嬢がドレスを嫌い、騎士隊入隊後に顔を出した数少ないすべての夜会を騎士の正礼装で通したのは、この場にいる誰もが知っていることだ。実際、今日こそはクリスのドレス姿が見られると期待して集まった輩も多いだろう。
 彼らは知らない。ほんとうは、なにもかも諦めたような想いで袖を通したドレスだった。
 あのとき暗く灰色に沈んでいた世界が、いまは眩しいほどに色鮮やかだ。
「友人に頼みまして、お忍びのかたちでお招きいたしました。本当はもう少し、こっそりといらしていただくつもりだったのですが。わたくしが女装するのだから、ご自分は男装なさると仰いまして。……押し切られました」
 また、笑いが起こった。男装のひとことに、納得したという表情で頷きあう顔がいくつもある。
「今宵のためしばらく休暇をいただいておりましたが、これからも私のこの身はわが巫女のために。この隊服を、脱ぐつもりもいまはございません。若輩の身ではございますが、皆様どうかお引き立てのほどお願いいたします」
 ふたたび緋色のマントを揺らして、クリスは礼の動作を取る。
 まばらな拍手が挙がった。エドマンドが、ユーリグが、そして揃いのマントの騎士隊の同僚たちが、率先して手を叩いてくれていた。それが呼び水となり、やがて拍手の轟音が広間を満たした。
 クリスはエアリアスの手を引いて、ゆっくりと広間に続く階段を下りる。
 しばらく演奏を止めていた楽団が、古典の名曲の前奏を奏ではじめた。
 ゆるやかな三拍子。最後の一曲だ。
 広間の中央まで歩み出て、クリスはエアを振り返った。
 紫の瞳をまっすぐ逸らさずに見つめて、微笑みかける。
「踊って頂けますか、――エア」
「はい」
 春風のようにエアリアスが笑った。
 軽く織られた礼装用のマントを翻し、クリスは鮮やかなリードでステップを始めた。重い巫女の衣装をうまく捌いて、エアリアスがぴたりとついてくる。背丈に差がないことは問題にならなかった。誰をリードしたときよりも踊りやすい。先刻、女のステップを踏んだときはどうだったろうかとクリスは記憶をたどったが、脳裏に甦るのはあのときのエアリアスの言葉と、強くひかる紫色の瞳ばかり。
(勿体ないな)
 苦笑したクリスを、首を傾げてエアが見やる。ふとその口許がほころんだ。耳に馴染んだ旋律が調子を変えるところで、一瞬その左目にひらめいたウィンクを、クリスは見逃さなかった。
 互いの瞳の中に、間違わずに同じ意図を見つけていた。
 一呼吸で手をつなぎかえる。銀髪をふわりと浮かせてエアリアスが大きくターンした。片手を離しもう片手を頭上に掲げる、男性側のうごきに合わせて、ドレスの裾をおさえる代わりにマントを引き寄せたクリスが、くるりとまわって見せた。そのまま、それぞれの衣装にはそぐわないステップを踏む。
 逆転して踊りはじめた二人を、歓声と笑い声と口笛が迎えた。巫女装束の穏やかな美しさはみださずに、けれども見事なリードをエアリアスは披露する。支える右手と導く左手の、ほんのわずかな力具合だけで充分だった。リードされて踊ることが、生まれてはじめて心地良く思えた。
 広間をひとめぐり、そのままなめらかに踊ってみせて、それからまたするりともとの組み合わせに戻る。ことさらに男性ぶって振り回してやると、苦笑まじりにエアリアスが、貴婦人のように頬を寄せてきた。さらさらと銀の髪が揺れた。
 陽光ではなくシャンデリアが、口ずさんだ俗謡ではなく楽団の音色があった。それでも心は、いつかの草原とおなじくらいに自由だった。くすくすと笑いながら、クリスは長い長い最後のダンスを踊り続けた。



 厩舎からは鞍をつけた鹿毛がきちんと引き出されていた。巫女殿からの迎えの馬車もすでに待機している。
「隊長から伝言。休暇と隊服の新調のぶんは給料からさっぴくから、きりきり働けってさ!」
 ぽんと背中を叩いて、とおりすがりしなエドマンドがからかうような笑顔で伝えていった。
「おまえがいなかった間の警備はエドと分担したからな。今度呑むとき奢りな」
 逆側からは漆黒の愛馬の手綱をひいたユーリグが、どこまで本気かわからない目で告げる。
 まったくもう、と幸せなため息をついて、クリスは傍らのあるじを振り返った。
「さあ、――帰りましょう」
「ええ」
 微笑んだエアリアスの手をとって、お忍び用の小さな馬車に乗せる。
 奥の座席に腰を落ち着けるのを確認して、離そうとした右手が、ふと引かれた。
 目隠しの布に遮られた濃い闇の中に紫の瞳を見つけて、言っていない言葉を思い出した。
「――エア。貴方が、好きです」
 ぽつりと告げる。頬の熱は、暗闇が隠してくれていた。
 ちいさく息を呑む音が聞こえた。
「そばにいます。ずっと」
 それだけ伝えて、きびすを返そうとした。けれど、叶わなかった。
 嵐のような激しさで抱きしめられて、瞬間、息ができなかった。
「……そばにいます」
 プラチナの髪に顔を埋めるようにして繰り返す。
「約束ですよ」
 笑うような泣くような声音で、エアリアスが耳元にそっと囁いた。
「もう離さない。貴方が好きです。クリス。この生は永遠に貴方とともに」
「――永遠に」
 みじかく、クリスは応じる。
 それはふたりだけの秘密の誓い。

 忠誠ではなく、この心を、貴方だけに。

 そして今度こそ身を翻して、クリスは愛馬に飛び乗った。夜の中に駆け出したい衝動を抑えて、動き出した巫女殿の馬車に歩調を合わせる。
 夜風が、ほてった頬に心地よかった。



(永遠に、あなたとともに)
 ――その誓いは、けれども。
 破られるまでに、三年を待たなかった。
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