白珠の巫女
STAGE 15
緋色のマントが遠ざかるのを、クリスは瞬きもせずに見送った。
指先からぬくもりが急速に失われてゆく。それとひきかえのように、ざわめきが耳に戻りはじめた。好奇心に満ち満ちた視線がいくつも突き刺さる。もの問いたげな目を、けれどもクリスはすべて無視した。首を巡らせて父親の姿を探す。
噂に踊らされた列席者の誤解など、あとでいかようにも解ける。問題なのは父、チャールズだ。クリスが灰色の髪の騎士の手を取った場面を、見ていないはずがない。
(自分で選べ)
そう言ったのは父だ。言ったからには、それを反故にすることなどありえない。たとえクリスの選んだ相手が、騎士隊の制服を着ていること以外になにひとつ身元の知れない青年であっても、この場でクリスの婚約者として紹介するくらいのことはしてのける。国務卿チャールズ=グレン=スタインはそういう人物だ。
だから、急がなければ。
あれは自分の選んだ相手ではないと、彼を婚約者に迎えるつもりなどないと、一刻も早く父に伝えなければいけなかった。
きっと理由を問われるだろう。なぜ彼の手を取ったのかと。うまい言い訳などない。ただ、彼は違うのだと、それで押し通してこの場だけでもおさめるしかない。夜会が終わってからどれだけ追求されるかと思うと、それだけでため息が出そうだ。
――それでもあのとき、エアの手を取ったことを、後悔などしていないのだけれど。
白髪の混じり始めた褐色の髪を、クリスは視界の端に認めた。人波をすり抜けて父親の傍に寄ろうとしたクリスの足を、だが背後の騒ぎが止めさせた。
水音。ほぼ同時に女性の軽い悲鳴がいくつか上がる。思わず振り返った視線の向こう、場の中心にいるのは灰色の髪と紫の瞳の青年――騎士の礼装をまとったエアリアスだった。
彼の白い礼服の、左の袖が葡萄酒色に染まっている。
犯人は彼の目の前にいる、派手な礼服の人物のようだった。腰に佩いた、装飾過多の細剣に見覚えがある。先ほどから何度もクリスにダンスを申し込みに来た、諦めの悪い青年貴族だった。
青年は空の杯を乱暴に卓に置き、空いた右手の指をエアリアスの胸許に突きつけてなにやら言い募っている。周囲が騒がしすぎてクリスのところにまではその台詞の内容は届いてこない。けれどもわずかに眉をしかめたエアリアスの表情から、ずいぶんと不快なことを言われていることは想像がついた。――あれは相当に怒っている。
「――ならば試してみたらいかがですか」
「望むところだ」
その会話だけが、喧騒の合間を縫ってクリスの耳に聴こえた。内容を訝る間もなく次の一瞬、クリスは目の前の光景に棒立ちになった。
シャンデリアの光を浴びて、きらめく銀色は抜き身のレイピア。
周囲の人だかりがいっせいに引いた。そこだけぽっかりと空いた空間で、騎士の礼装のエアリアスと目の醒めるような青い装束の青年貴族とが、剣を互いに突きつけて睨みあっていた。
「クリス、クリス」
腕を引かれて反射的に目を向ければ、エドマンドが苦笑いを向けてくる。
「エディ。あれなに。どういうこと」
「それがね。君、あの方とだけ踊ったろ。それであいつひがんじゃって、因縁つけてさ」
「因縁?」
「そう。その細腕で剣が握れるのか、隊服は金で買ったか、なんて。あげくに君のこともなんだか変な風にね――なんだったかな、美少年趣味?」
「な――」
かっと怒りに頬を染めて、クリスは青年を振り返った。大股に歩み寄ろうとするクリスを、エドマンドが腕にかけた手の力を強めて引きとめる。
「待ちなよ。こういうの、女の子が出るもんじゃない」
「だってエディ」
「"セシル"に、恥をかかせるつもりかい?」
「――けど。怪我でもしたら!」
「大丈夫だって。話聞いたよ。君がじきじきに教えたんだろ?」
ほら、見てなよ。ぽんぽんと落ち着かせるようにクリスの背中を叩いて、エドマンドは微笑む。
「まずいことになりそうなら俺らで止めに入るさ。お姫さんは黙って見守ってやんな」
反対側ではユーリグが面白そうに笑いながら、腰のレイピアをがちゃりと握ってみせた。
「お、始まるぞ」
長い指が示すのにつられて視線を戻すのと同時、キン! と金属音が響いた。
わあっ、と歓声が上がった。なんでも娯楽にしてしまうのが上流階級だ。両名それぞれに声援が飛ぶ。すでに賭けを始める輩までがいた。
一合、二合。互いに譲らず剣を合わせたあと、青年貴族が大きく踏み込んで突きを繰り出した。それをふわりとかわしながら背後に回りこんだエアリアスが足許を狙う。跳びすさって体勢を整えた青年はふんと鼻を鳴らすと、今度は横薙ぎに斬りつけた。一歩さがって切っ先から逃れ、エアは後ろに出した足を蹴りつけてすばやく青年の懐に飛び込む。目を瞠って青年が、力任せにエアのレイピアを自分のそれで跳ね上げつつ距離を開いた。
「なかなかのものだな」
感心するようにユーリグが呟いた。きらびやかなレイピアはけして飾りではなかったようで、青年の技量は確かだった。教師についてきちんと学んだ正式の剣だ。
だがその技に、エアは対等に渡り合っていた。体格が違う。腕の長さも、おそらくは腕力も違うだろう。それでもひらりひらりと突きをかわし、隙を突いて反撃を繰り出す。作法通りの剣ではない。けれども舞を見るような、見事な動きだった。
「凄いね。正直ここまでやるとは思ってなかった」
エドマンドもまた、感嘆のため息をつく。
「当然だよ」
目は正面に釘付けのまま、上の空でクリスは答えた。
「……私が教えたんだもの」
左手が存在しない剣を腰に求めてさまよう。
スタインの令嬢に気づいた周囲が囁きあって脇に避け、いまでは最前列とも言うべき場所で、クリスはふたりの打ち合いを見つめていた。緋のマントが風をはらんでひらめき、灰色の髪が宙に泳ぐ。うっすらと汗の浮かぶ秀麗な顔、きらきらと輝くアメジストの瞳。
(ああ、エアだ)
唐突にそう思った。
穏やかなたたずまいも、悪戯っ子のような微笑みも、からめとるような強いまなざしさえも、すべてクリスの好きな彼だけれども。
一番最初に惹かれたのはこの瞳だ。
騎士になりたかったと言った彼が、ほんの時折見せてくれた、仮面の下の少年の瞳だった。
(男のひと、なんだ)
とうに知っていたはずのことを、今更のように思う。
護られるばかりのか弱いひとではなかった。たたかう強さを、持っているひとだった。
だからこそ惹かれたのに。
ひときわ大きな金属音がして、二人のレイピアが火花を散らした。青年が一歩、大きく踏み込む。
「エア、右っ!」
我知らず、クリスは叫んでいた。その声を聴いたかどうか、ほぼ同時にエアリアスがわずかに右に体重を移す。反動で揺れた緋色のマントを、青年のレイピアが貫いた。布に剣をからめ取られてたたらを踏んだ青年の胸許に、エアリアスは自身の細剣の切っ先をぴたりと突きつける。
歓声と野次がどっと湧いた。
「先程の言葉、撤回していただきましょう」
「――わ、判った」
冷ややかな声音に、汗の浮いた額を拭いながら青年が応じ、剣を下ろす。
それを認め、エアリアスは表情を和らげて自分のレイピアを鞘に戻した。気まずい雰囲気を振り払うように、マントを大きくひらめかせて踵を返す。その刹那。
「――くそッ!」
表情を豹変させた青年が、自棄のようにレイピアを振りかぶった。
「やっちまえ!」
「この若造ッ」
便乗するように、青年に盛んに声援を浴びせていた若手貴族のグループが、酒臭い息を吐きながらエアリアスの身体を押さえにかかった。
それ自体は珍しい光景でもない。緋色をまとった騎士が夜会に歓迎されるのも、ひとつはこうした乱闘騒ぎがしばしば起こるからだ。
「たく、馬鹿貴族ども」
低く悪態を吐いて、ユーリグが鞘ごと腰からレイピアを外す。
だが彼が踏み出すより一呼吸早く、脇を金色の風が吹き抜けた。
「……ごめんユーリグ、借りる!」
ユーリグの手からレイピアをもぎ取ると、クリスはそのまま騒ぎの中心に走りこむ。
直後に響いた金属音はひとつ、悲鳴はふたりぶん。
正面ではクリスに思い切り剣を弾かれ、腕を痺れさせて青年がレイピアを取り落とした。そしてちょうど背中合わせにはエアリアスが、鞘ごとのレイピアで、自分を捕らえようとした手をしたたか打ち据えたところだった。一呼吸のずれもない、示し合わせたかのようにタイミングの合った動きだった。
クリスは瞬いた。
不思議な感覚だった。触れ合うか触れ合わないか、ぎりぎりに近寄せた背中からやわらかな安心感がつたわる。エアリアスの次の動きが読めた。自分の一歩に合わせて彼はこちらへ行くだろうと、なんの疑いもなく信じられた。
きゅっと唇の端が上がる。
クリスは挑発するように笑って、正面の青年を見やった。
「次は? ……打ってこないの、誰か?」
すっかり酔いの醒めた顔で、青年は気まずげに右の腕をさすっている。口の中でぼそぼそと、なにか謝罪のようなものを呟いていた。
打ち込んでくる者があるはずもない。そのくらいはクリスだとて知っていた。剣士としてのクリスの名声を差し引いたとしても、スタイン家の令嬢、今宵の主役であるクリスタル=リーベルに誰が剣を向けるというのか。
判っていて、それでも言わずにおれなかった。
いましばらくこの背中を、灰色の髪のにわか騎士に預けてみたい。
戸惑うような沈黙が落ちた。九分の諦めと一分の期待と、ない交ぜにクリスは待った。少なくとも待っている間は引き伸ばしていられると、そんな子供じみた打算があった。
結局、沈黙を破ったのは予想通りに茶色の髪の律儀な友人だった。
「そのへんにしときなよ、クリス」
苦笑をにじませた軽口。ふっと緩んだ空気とともに、背中の気配が離れていく。
「君がチャンバラ好きなの知ってるけどね。彼らの酔いも醒めただろ。お姫様が出てきちゃ悪ふざけも終了だ」
「……ん」
重ねて言われて、渋々とクリスは剣を下ろした。受け取ろうと伸ばされた手に、懐かしい重みの一振りを委ねようとする。
そこに、涼やかな声が割り込んだ。
「――私では役に足りませんか?」
振り向いたクリスに、紫水晶の瞳が笑みかける。
エア、と呼ぼうとして、あわててクリスは彼の名乗った言い慣れぬ名を口にした。
「……セシル?」
向けられた表情を良く知っている。いったい何度、この笑みの前に陥落したことだろう。
「クリスタル嬢は剣の上手で聞こえておいでですから。ほんの余興に、私とひと勝負。お願いできませんか?」
その申し出に、純粋に心が浮き立った。間近にした見事な剣戟の余韻と、呼吸を合わせた一瞬の手ごたえが、クリスの心を高揚させていた。
この半年、幾度も剣を合わせた。だがそれは師として教え子としてのもの。真剣勝負として打ち合ったのは、はじめの一回だけだ。――そのときクリスは、本当のエアを見つけたのだ。
ならば二人の終わりも、剣で決着させるのが相応しいのかもしれない。ダンスを別れにするよりも、きっと自分たちには似合いだ。
クリスはにこりと笑った。笑ったあとで、これが今日はじめてエアに向ける笑みだったと気づいた。
不思議だった。先刻まであれほどぴんと張っていた気持ちの糸が、いつの間にかゆるんでいる。
「喜んで。――お受けします」
「ありがとうございます。それと……わがままついでに、もうひとつ」
エアリアスはしなやかな右手を白い礼服の胸に置いた。騎士の、誓いの仕草だ。
「もし私が一本取れましたら、ひとつお願いを聴いてはいただけませんか」
「お願い?」
「はい」
頷いて、灰色の髪の騎士はクリスの前に片膝をつく。
「――クリスタル、どうか貴方を、私だけの騎士に」
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