亜麻色の髪をなぶる強風も、荒立つ心を鎮めてくれる役にはたたなかった。
全身の力を愛馬を駆ることに注ぎ込みながら、クリスの心だけが別のことに向いている。
悔しかった。
どうしようもなく悔しくて、……悲しかった。
いつからか――たぶん、本当のエアに出逢った時から。全霊をかけてこのひとを護るのだと決めていた。それが、自分が彼の隣にいる意味だと思ったから。
それなのに――
(護らせてもくれないなら)
「意味なんて、ないじゃないか……!」
やっと声が出て、そうしたら少しだけ落ち着いた。
視線を上げると草原の向こうに白亜の巫女殿が見えていた。とっさにクリスは手綱を引いた。不満そうな嘶きをあげて鹿毛が速度を緩める。
掌で乱暴に顔を拭って、クリスはひとつ深呼吸をした。
やらなければならないことは、まだ終わっていない。
たとえあるじである巫女にどう思われていようとも――自分は白珠の巫女の守護騎士なのだから。
……今は、まだ。
「レナ!」
窓の外から守護騎士に名を呼ばれて、冷静な筆頭女官もさすがに驚いた様子だった。
「守護殿。どうか、なさいまして」
「説明はあと。すぐに全員……そうだな、広間に集めて欲しい。私が戻ったことはまだ内密にして。頼める?」
足早に近寄ったレナに、クリスはひそめた声で告げる。
「……全員とは、下働きのものも含めてですか」
奇妙な頼みにレナは怪訝な顔をしたが、問うたのはそれだけだった。余計なことをまったく口にしない有能さがありがたい。
「そう、巫女殿にいる全員を。理由はなんでもいい。私は少ししたら行く」
「承知いたしました。では、すぐに」
会釈をして扉へ向かうレナの後姿を見送り、壁に背を預けてクリスは自分の鼓動を数えはじめた。
千数えたところで身を起こし、正面玄関に向かう途中でクリスはふと緋のマントを着けていないことを思い出した。襲撃者の目をごまかすため、道中でエアのケープと交換したからだ。上着も今日は隊服とは違う。この数年、休暇の時を除いて外出時にそんな恰好をしていたことがないから、気がついてしまうとなんとなく落ち着かなかった。
馬鹿げていると理性では思いつつ、クリスは私室のほうへ踵を返した。皆を集めるのに、きちんとした騎士の装束のほうがいいはずだと心中で言い訳をする。
私室の窓は出掛けたときのまま、開け放ってあった。外からだと少し高さがあるが、登れないほどではない。念のため窓の内側に障害物などないことを確認しようと部屋の中を覗き込んで、目にした光景にクリスはあやうく声をあげるところだった。
部屋の中に誰かいる。
慌てて口を抑え、改めてクリスは慎重に室内に目をやった。
そこにいたのは黒髪を肩のところで切りそろえた、若い女官だった。
留守中私室に女官がいる、そのこと自体は別にとりたてておかしなことではない。クリスが自室にいるときに女官に構われることをあまり好まないので、女官たちはこまごまとした世話をクリスの外出中に行う習慣にしていたし、クリスもそれをありがたく受けていた。
だが今そこにいる女官はクリス付きの顔触れにはいない。そしてその緊張した表情は、日常の仕事をこなしているふうにはとても見えなかった。
クリスが息を潜めて観察する前で、女官はクリスの執務机に歩み寄り、机上の物をひとつひとつ手にとって仔細に眺めたあと、抽斗に手をかけた。鍵のかかった抽斗はがたっ、と耳障りな音を立てて女官の手を拒む。苛立った様子でその女官はがたがたと抽斗をゆすぶっていたが、やがて諦めたように溜息をつくと机の上を整えてそそくさと部屋をあとにした。
気配が去るまで待ってからクリスは窓枠を乗り越え、私室に降り立った。衣装戸棚を開けて予備のマントを取り出し、手早く身に着けながら執務机に目をやる。特になにもなくなってはいないようだった。鍵のかかる抽斗に感謝しつつ、クリスはもと来た窓に一直線に戻り、片手を支えにひらりと飛び降りると駆け出した。レナに召集を頼んでから、だいぶ時間を使ってしまっている。急がなければいけなかった。
クリスがわざと音高く広間の扉を開くと、全員の視線が彼女に集中してそこにあった喧騒が一瞬消えた。その機会を捉え、クリスはレナを見つけて呼ぶ。
「全員いるね?」
「はい」
「よし。ありがとう、手間かけた。……さて。皆、静かに」
昂然と顔を上げ、ぐるりと居並ぶ顔を見渡してクリスは鋭い声に切り換えた。
「いきなり呼びつけてすまないが、緊急事態だ。……今日、遠乗りに行った先で巫女様と私は刺客の襲撃を受けた」
先刻より大きなざわめきが広場を満たした。レナすらも表情を緊張させてクリスを見あげた。
「クリス様、本当ですか!」
「それで巫女様は御無事ですの!?」
「言っただろう。静かに」
クリスはきつく言い放った。いつも軽快な守護騎士の、厳しい口調と顔つきに全員が息を呑んだ。
ひとりひとりの顔をクリスはじっと見比べる。部屋の隅に隠れるようにして、私室にいた件の黒髪の女官もいた。その顔色は紙のように白く、今にも気を失いそうに見えた。
彼女に目を据えたまま、クリスはゆっくりと口を開いた。
「私たちは待ち伏せされた。私たちの遠乗りの習慣も、今日出かけることも、ここにいる皆以外は知らなかったはずだ。……残念だが、この中に内通者がいる」
三たび起こったざわめきをひと睨みで静める。
「その者に言っておく。いまさら逃げようとは考えるな。無駄だ。神殿の周囲にはすでに、騎士隊員が控えている」
そこでクリスは言葉を切り、しばらく黙り込んで空気が張り詰めるに任せた。
そして一転して、ちらりと笑みを見せる。
「だが、……正直に話してくれれば、すぐに処罰はしないと約束する」
緊迫がわずかに緩んだ。
(脅しもこんなところかな)
心の中で肩をすくめ、目に見えて怯えている黒髪の女官にクリスはつかつかと歩み寄った。女官があとじさるより早く、腕を捉えて引き寄せる。
「さっき私の部屋にいたね。なにをしていた?」
「…………あ……あのっ、私、お掃除……を」
「正直に、と言ったろう?」
クリスより二・三歳は幼く見える女官はその言葉にさらに血の気をなくし、見る間に両目に涙を溢れさせたかと思うとクリスに寄りかかるようにくずおれた。失神したらしい。クリスは溜息をつき、その身体を横たえると立ち上がって宣言した。
「他にもいるなら聴きなさい。口をつぐんでいるつもりなら容赦はしない。逃げるのはさっき言ったとおり不可能と思うこと。出頭するのが最善だ。……私は、皆の誠実さを信じている。以上、解散」
今度のどこか遠慮がちな喧騒には、クリスは干渉をしなかった。まるで周囲を気にかけない様子で失神した女官を抱え上げて扉へ向かう。そして部屋を出る寸前、思い出したように振り返った。
「そうそう。巫女様はご無事だよ。怪我もない。すぐに戻っていらっしゃるから、美味しい夕食を頼むね」
そして喜びの声を背に、すたすたとクリスは私室へ向かった。
ちょっと皆を怯えさせすぎたか、との思いが胸をよぎる。
(……でも)
「ちょっと気持ち良かった、かな」
その呟きは幸いなことに、誰の耳にも届かなかった。
エドマンドとともに白珠の巫女が神殿に戻ったのは、それからいくらもたたない時分だった。
「お帰りなさい。あのあと、なにもありませんでしたか」
出迎えたクリスの笑顔に、すでに別れたときの動揺はどこにも見つからなかった。エドマンドはこっそりと安堵の溜息をつき、エアが嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、なにも。大丈夫でしたよ。こちらはどうなりました?」
「今からご説明します」
そう言ってクリスは二人を私室に招いた。程なく到着したユーリグを交えて、先刻の経緯を手短に説明する。
「その女官――」
クリスが話し終えると、巫女が思案顔で呟いた。
「アニーではないですか? アナイア=ディスカス」
クリスはかぶりを振る。
「判りません。私が名を知っている子ではなくて」
「ああ、ええと……髪が黒くて肩のところで切っていて。歳は確か十五です」
「……その子です、けれど。なぜ?」
呆然とクリスは問い返した。件の女官の容姿を説明した憶えはない。
「出掛けるときにね。なんだか様子がおかしくて、気になっていたので。やはりそうでしたか」
あっさりとエアリアスは返答した。一瞬クリスの表情が硬くなる。それを見て取ったユーリグが、とりなすように大きな声で口をはさんだ。
「ところでその女官はいまどこにいるんだ?」
クリスは瞬きをしてユーリグに目を向け、少し表情を和らげると部屋の奥の扉を示した。
「そこの続き部屋。あれしか入り口ないからちょうどいいんだ。まだ、目は醒めてない」
「起きたらどうするつもりだ」
「私が話を訊くよ。だいぶ怖がらせたしね、まだ子供だから。うまくやればちゃんと話してくれると思う」
「じゃあそれはクリスに任せるとして。僕らにできることあるかい?」
エドマンドも明るい口調を作って問い掛ける。
「うん。ちょっと大変で悪いんだけど、何人か呼んで今晩巫女殿の周囲見張ってくれないかな。特に裏口とか厩のあるほう」
「了解。クリスのはったり、本物にしておかないとね」
いたずらっぽく笑ってエドマンドは請けあった。
「よろしく」
「よし、じゃあ急がないとな。エディ、行くぞ」
「そうだね。じゃあクリス、明日また来るよ。巫女様、失礼します」
機敏な動作で席を立った二人を見送ったあと、エアもまたクリスに微笑を向けた。
「では、私も部屋に戻ります。アニーが目を醒ましたら呼んでください。私も話を聴きたいから」
そう言って廊下に出たエアリアスを、クリスの声が呼び止めた。
「巫女様」
「……クリス?」
二人のときに出るはずのない呼称に、エアは怪訝そうに眉を寄せた。
「この件が片付いたら、私は辞任します」
「……え……?」
「それだけです。――おやすみなさいませ」
エアリアスの目の前で、扉が静かに閉じた。
人気のない廊下に、白珠の巫女は長いこと立ち尽くしていた。