「……じゃあ、僕は帰らないと。返書は明朝誰か来ると思うから、そのとき預けてくれ」
一刻ほど世間話をかわして、掛時計に目をやったエドマンドが慌てて立ち上がった。短い挨拶を交わし、馬の準備を厩舎に伝えて、並んで廊下を急ぐ。
「たまには骨休みにおいでと言いたいけど、今は無理だろうな。この騒ぎがなんとかなったら一度顔見せなよね。隊のみんなも会いたがってるしさ」
「ま、そのうちに。皆によろしく」
最後にそんな言葉を交わし、エドマンドはひらりと愛馬に飛び乗ると宵闇の向こうへ砂煙とともに去った。クリスは短い吐息で懐かしさを振り払うと、書簡の内容を確かめるため私室へ向かった。
夜の更けた頃に赴いた巫女の部屋には、ノックに応えてみずから扉を開けたあるじひとりの姿しかなかった。
「……人払いを?」
尋ねた声に小さく頷いて、エアはクリスを室内へ招き入れた。
「騎士隊のご友人がいらしていたと、聞いたので――」
茶の器を並べる音がかちゃかちゃと、しんとした室内に響く。自分でこうして動くのが好きらしいのを知っているので、クリスはそのことには感想を差し挟まない。そこで恐縮しない程度の間柄には、この半年でなっていた。
「でもそれだけで、私が今晩来ると予測したわけではないでしょうに?」
「鋭い」
エアはふっと笑んだ。
「神殿は神殿で、情報網がありますからね。今朝届いたものですし……クリスに来たものと話題は同じだろうと、思います」
「なるほど。では、情報交換が手っ取り早いかな。隊長は、巫女様がお心を痛めないよう言葉を選べとも書いてましたけれど、ね」
「ありがたいお言葉ですが、あいにくそんなに繊細でもありません」
「知ってます」
クリスは封筒ごと騎士隊長からの書簡を差し出す。それを受け取るとエアは立ちあがり、書物机の鍵のかかる抽斗を開けて分厚い封書を器用に放って寄越した。暗い銀色の封蝋の刻印は、中央神殿の紋章だ。
しばらくのあいだ、紙をめくるもの以外の音が部屋から消えた。
先に顔を上げたのはエアのほうで、彼は沈黙を守ったまま、次第に眉間の皺を深くするクリスを眺めていた。そしてクリスが大きく息をついて手紙を畳み始めると、机の羽根ペンをとって白紙にさらさらと書きつける。
二つ折りにされたそれを渡され、一瞥でクリスは頷いた。
そのまま言葉を交わすこともなく、その晩はそれで別れた。
翌日。昼食のお時間ですと白珠の巫女の部屋の扉を叩きに来たひとりの女官は、その部屋がもぬけの殻であることを発見する。
それはまた、その守護騎士についても同じことであった。
混乱状態を防いだのは、筆頭女官レナの迅速な立ち回りと、巫女の部屋に遺されていた一枚の紙片。
――巫女本人の落ち着いた筆跡で、『心配には及びません』と。
「……いまごろ大騒ぎですよ」
何度目かのため息をついて、クリスは恨めしげに隣を見やった。
「大丈夫。しっかりものが一人いますから」
エアはいとも能天気に笑う。あーあと、空を仰げば太陽が眩しかった。
昨夜、エアリアスが書いて見せたのは「明日の夜明け前に厩で」というメッセージだった。人気のないところで話したいのだろうと素直に従ったが、この白珠の巫女どのはもう少ししたたかだったらしい。笑顔ひとつでわけも判らず馬の支度を手伝わされ(と言うより、慣れているクリスをエアが手伝って)怪しまれないように戻った朝食のあとすぐに馬を並べてお出かけ、というのがことの顛末である。
お忍びでいったいどこに行くつもりかとクリスは当然訝ったが、なんのことはない、目的地はいつも遠乗りで来る草地だった。
(気まぐれですとか言われたら怒るぞ……)
気持ち良さそうに風に髪をそよがせているエアを見やって、クリスは再び嘆息する。
普段ならこういうちょっとした冒険もいい。どんなに大事にされたとてエアには神殿が窮屈に感じることもあるだろうし、そういう時の気晴らしにならいくらでもつきあいたいと思う。
けれど、今は状況が悪すぎた。本当のところ、クリスはエアの外出を止めなければならない立場にある。渋々とはいえ従ってしまったのは、守護騎士としては失格だ。
なんでこのひとには逆らえないんだろう。不思議に思いながらクリスは、エアの白銀の髪に踊る光をぼんやりと眺めた。
と、視線が合った。
「なにか?」
穏やかな笑顔。
一瞬だけクリスは言葉をなくす。
「……遊びに来ただけじゃないでしょう?」
「そうでしたね。さて、いると思います? クリスは。私の近くにも」
謎かけめいた台詞。だが、意味することは判っている。それこそが、昨夜エアの部屋で見せられた書簡の内容、そして今日の冒険を許してしまった理由だ。
「……いないと思いたいですけれど、ね」
「ええ。嬉しい話ではないですから」
「本当に。……内通者、か……」
クリスは綺麗な弧を描く眉を寄せる。
中央神殿からの書簡には、五日前に紅の宝珠の巫女殿で起きた事件について書かれていた。紅珠の巫女は派手好きで知られるが、それが仇となったか外出から戻る馬車が刺客に襲撃された。巫女は命を落とすことはなかったが今も寝台から起きられぬ怪我を負い、その守護騎士も無事ではすまなかったという。
だが、ほぼ同刻にクリスの許に届いた騎士隊長からの手紙では、この事件についてなにも触れられていなかった。
それは体面を大事にする神殿側の隠蔽工作が働いたからだとしか考えられない。
紅珠の事件の裏には、刺客と内通した神殿女官の存在があった。神殿はそれを極秘にエアリアス本人にだけ知らせてきたわけだ。
神殿側は守護騎士にももらさぬようにとも書いてきている。それはクリスの職務をまったくないがしろにした態度だった。もともと、神殿と騎士団はなにかにつけて仲が悪く、宝珠の巫女と騎士が緩衝となって表面上の均衡を保っているという関係だった。
そんなことはよく判っている。――それでも。
(それほど体面が大事か)
そのことを思うと血の気がひくほどに腹立たしかった。
そんなお偉方の足の引っ張り合いのせいで、なににかえても護るべき相手をうしなったらと、それを考えると気が遠くなるほどにおそろしい。顔も知らぬ紅珠の騎士はいったい今、どれほどの痛みを抱えていることか。
「とにかく、警戒を強めるほかはないでしょう。できれば外出も控えて。しばらくは誰のことも信頼はしない――という覚悟でいなければならないでしょうね。……悲しいですが」
事務的な口調を心掛けながら、そう告げる。
自分より長い時間を神殿で暮らしてきたエアには、周囲を疑うのはひどくつらいだろうと思った。
けれど。
「いえ、それより」
むしろ陽気とさえいえる表情で、エアは指を一本立てた。
罪のない悪戯を企む子供の目に似ている。
「いるかいないか疑い続けるくらいなら、こちらからちょっかいかけてみませんか」
「……はい?」
「囮作戦。協力してくださいね」
「…………」
にこにことそういわれては、もう天を仰ぐしかない。
胸のうちでクリスは深くふかく嘆息して、思う。
……このひとに、守護騎士なんか要らないんじゃあないだろうか。
「駄目です。絶対に、許可できません」
「大丈夫ですから、信用してくださいって」
「いいえ。これだけは譲れません、絶対に駄目」
「…………」
「…………」
睨みあい、というには迫力のない言い争いは、もう何十回目になるだろうか。お互いいいかげん飽きてきているのは承知で、それでも顔をあわせると性懲りもなく始まるのだった。
「ね、クリス……」
「駄目、です」
最初ははらはらと見ていた女官たちも、さすがに慣れたらしい。クリスのにべもない返答に、夕食の皿を下げに来たひとりが抑えきれずにくすくすと笑みをもらした。
「冷たいなぁ」
椅子の背に頭を預けて、しょんぼりとエアがため息をつく。
「久々に遠乗りをしたいって言ってるだけなのに。そんなに先日の悪戯を怒ってるんですか」
先日の、とは書き置きトンズラ事件のことだ。気まぐれでひとり神殿を抜け出したエアを、気づいたクリスが単身追って連れ戻した、と皆には説明してある。巫女のすることに怒れるものはいないし、クリスが騎士になってから巫女が外向的になってきている(クリスに言わせれば本性が出てきただけなのだが)ことは一同喜ばしく感じているらしいのでたいした問題にはならなかった。まあそれはいいとして。
(あああっもうっ)
クリスは叫びだしたい気持ちになる。そんなことは断じてできないからしない。しない、がしかし。
(タチ悪すぎる……)
「まぁ騎士様、いいじゃありませんの。巫女様が外出なさりたがるなんて以前はほとんどなかったんですのよ」
「そうそう、このあいだのことでそんなにお怒りになっては、巫女様がおかわいそう」
年長の女官たちが、とりなしの表情で会話に割ってはいる。危惧したとおりの展開だ。たっぷり三十秒仏頂面をしてからクリスは渋々折れた。仕方がないですねという言葉に遠慮がちに綻んだエアリアスの笑顔が、クリスにだけ向けられた勝利の笑みに見えたのは、断じて気のせいではない。
結局その場でクリスは翌日の朝に巫女を連れ出すことを約束させられた。
「まったく、もう……」
いつものように巫女の部屋を尋ね、女官が立ち去るのを確かめてからクリスは苦りきった顔をエアに向ける。
「皆を味方につけるなんて。ずるいですよ」
エアは声を立てて笑った。
「だってああでもしなければ、承知してくれなかったでしょう?」
「あたりまえです」
「でももう約束しましたからね?」
顔を覗き込んで確認してくる。憮然とクリスは頷いた。
「……くれぐれもお気をつけて」
せめてこれくらいは言わせてほしい。可能なかぎりの感情を込めたその言葉に、笑みを含んだまま瞳だけまじめな表情で、小さくはいと返事がかえった。
それから出かけたらあそこに行こうこれをしようという他愛ない話をして、三杯カップが空になったところでクリスは立ち上がった。
「……じゃあ、私は明日の準備を」
「ええ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
扉を閉める一瞬前に、エアが呼び出しのベルをりん、と鳴らすのが聞こえた。