白珠の巫女

STAGE 4


 呆然と見詰め合う時間がどれだけ過ぎたか。
 先に動いたのはエアリアスだった。ふ、とため息を落として、先刻脱いだ上衣を拾い上げる。
 装飾の多いゆったりした上着で、胸許の裂け目はすっかり隠れた。……だが露見した事実までもが、それで隠せるものでもなかった。
「クリス」
 吐息のように巫女が呼ぶ。
 クリスには返事ができない。
「夕食のあと、私の部屋へいらしていただけますか」
 やっとのことで小さく頷いたクリスに淡い笑みをむけると、白珠の巫女はすべるように部屋をあとにした。
 その背中が見えなくなって、それでやっと呪縛が解けたようだった。倒れ込むように扉に背をつけて、クリスは長いながい深呼吸をした。
「うーそーだろ――――」
 気の抜けた声で呟いて。嘘ではありえないことはよく判っている。この目で見たものだ。偽れない。
 ……この目で。
「……あ」
 改めて思い返したところでなんだか恥ずかしくなってきた。頬が熱い。きっと赤い。誰も部屋にいなくてよかった。
 頭の中は混乱してぐるぐる渦巻いている。
(……だって「巫女」なのに?)
「わけわかんないぞーぉ……」
 ため息ばかりがこぼれた。


 夕食までの時間が、これだけ長く感じられた日もなかった。いつものとおりの晩餐はどこかうわすべりした会話のうちに終わって、ふたり目を見交わして一度それぞれの自室にひきあげる。
 半刻ほど時間を置いて、言われたとおりクリスは巫女の私室を訪れた。控えめなノックの音に応えてエアリアス自身が扉を開けて室内へ招き入れた。錠をおとすかすかな音。
 向かい合う椅子に挟まれた小卓のうえにはティーポットと、カップが二つ。いつもそっと控えているはずの女官の姿は、今はない。
「人払いはしてあります。誰が聞いてもいい話とはいきませんから……」
 慣れた手つきで紅茶を注ぎわけながら、エアリアスが表情を読んで言った。その様子に動揺は見えない。本当にないのか、巧みに隠しているのかまでは判らないが。
 ポットが銀の盆に戻されたところで、どちらからともなく向かい合って座った。カップを口に運び、おろして、さぐるように視線をあわせる。
「何から話せば、いいのかな」
 一瞬だけエアリアスが、困ったような目をした。銀色のまつげを伏せて。
 淡雪のような笑み。
「……私はね。三歳で母親に捨てられたんです。父の記憶はありません。母についても、別れた日のことしか。……菓子をひとつ渡されて、ここで待っていなさいと言われて、……それきりでした」

 ――冬の日だった。ひどく寒くて。置いていかれたのだと子供心にも知っていたけれど、後を追うこともできなかった。それくらい寒かったのだ。……身体でなく心が。
 だんだん気が遠くなって、このまま死ぬかもしれないと思ったけれど、目覚めたところは暖かい部屋だった。コジインという言葉をそのとき覚えた。
「十年ほど、そこで生活しました。楽な暮らしではなかったな。ご存じないでしょう? 明日食べるものがあるかも判らない生活、なんて」
「……ええ」
 責めている言葉ではないのが、クリスにはよけいに痛い。
「でもあそこにいた人はみんな暖かくて。だから私は不幸ではなかったと、思いますよ」
 エアリアスはふわりと笑った。少しだけ、遠くを見る目をして。

「白珠の巫女選びの祭典は、毎年春にあるでしょう?」
 口調を改めて、エアリアスが確認するように言った。それは事実だから、クリスは頷く。宝珠の種類によって違いはあるが、たいてい祭典は定期的に開かれることになっている。次代の巫女が必要になるときだけ慌てて催すのでは、国民の不安を煽るだけだからだ。このフェデリアは、紛れもなく宝珠とその巫女が支えている国なのだから。
「私は顔もこんなで、体も小さくて、昔からよく女の子に間違われることが多かったんです。髪もちょうど長くて。珍しい色だから、伸ばしておいて売るとけっこういい収入だったんですよね。それで、十三の歳の祭典のときにも間違われて引っ張り込まれたんです。そうしたらなぜか、宝珠が反応してしまった。あの時は本当に、びっくりしましたよ」
「宝珠が、反応したんですか。貴方は……女性では、ないのに?」
「ええ。実はね、先例のない話ではないそうですよ。特に白と紫の宝珠は、過去に幾人か男の『巫女』を選んでいるらしいです」
 爆弾発言にクリスは目を円くする。
 宝珠の巫女は必ず女性と、それは疑問を差し挟む余地もない常識ではなかったのか。
 その様子にエアリアスはいたずらっぽく微笑んだ。
「もちろん極秘事項ですよ? 選ばれても、実際巫女になった例はさらに少ないそうですし。たいていはその当時の巫女が、次に女性候補者が現れるまで続けたそうです。ただ私の場合、状況がもうどうしようもなく悪かったんです。その時の白珠の巫女……つまり先代さまですね、そのかたが流行り病でその次の冬は越せまいと言われていた、そんな時に私が選ばれてしまった」
「そう言えば……先の白珠の巫女様が選ばれたのはもうずいぶん昔でしたっけ」
 確か、クリスが生まれるより前のはずだった。巫女の代替わりはあまり声高に言われる類のことではないが、王宮主催の祭りなど巫女が一般に顔を出す機会もないわけではなく、自然と知れる。それに巫女の性格によっては、貴族を集めて派手にお披露目パーティなどを催すこともあった。
「ええ。でも……それでも、私がどうしても嫌だといえば辞退することはできたかもしれません。神殿側もどうしたってリスクを負うわけですし、嫌がる人間を宝珠の護りにしたところでこの国が危うくなるだけです。けれど、私はそれができなかった」
「何故ですか?」
 問いかけたクリスに一瞬、痛そうな笑みを巫女は向ける。
「それで、孤児院のみんなが生きることができたから」
「――――」
「宝珠の巫女の出た家は、その後数十年は王家の援助が受けられる。私の場合両親も家もないですから、暮らしていた孤児院がそれに当たります。その援助があれば、病を得るほど働かなくても、身体を売らなくても犯罪に手を染めなくてもみんなが生きられる。前の冬が不作で、本当にそうでもしないと危なかったんです、あの時は」
 もちろん巫女になるなんて言いふらせませんから、表向きは大金持ちの養子になったと言ってありますけど……そうつけたしてエアリアスは、穏やかに微笑んだ。それは無表情とひとしい笑顔だ。
 クリスは視線を惑わせた。目の前の白珠の巫女は、大貴族の家に生まれたクリスにはまるで想像のつかない、遠い存在だった。真っ直ぐに顔が見られない。
 その様子に、エアリアスがわずかに口調を変えて言う。
「本当はね。……なりたいものなら、私にもあったんです」
「なりたいもの?」
「ええ」
 エアリアスは目を伏せる笑いかたをして、冷めた紅茶を意味もなくかき混ぜた。白い指先はすんなりと細くて、こうして事情を知った今も男性のものだと忘れてしまいそうだ。日々剣を握る自分のほうがごつい手をしているのではないかと、クリスは思う。
 それもまた彼の、細心の注意の賜物なのだろう。
「平凡ですよ。……騎士隊に入りたかったんです」
「…………」
 クリスは声もなくその告白を聴いた。
 それはこのフェデリアに生を受けた少年の多くが一度は口にする、確かに平凡な願いだ。そして、ごく狭き門ではあれ実力を示せば機会は誰にでもある、実現可能な夢でもある。……普通ならば。
 けれどそうして実力を試す機会さえ、彼は奪われて。
 性別を偽って、露見せぬようにひっそり暮らす毎日が、辛くなかったはずはない。なんでもないことのように、エアリアスは簡単に笑うけれど。
 それにひきかえこの自分は? 異性しかいない世界に飛び込んだのは同じ、けれどその理由は天と地とも違う。課された役目を蹴って、わがままを通しただけだ。努力をしてこなかったなんて言わないけれど、大貴族の家に生まれていなければきっと努力のしようもなかった。……彼のように。
 それが宝珠の巫女の騎士にまで、なって。
「……どうして私を騎士に指名したんです」
 気がついたらそう訊いていた。まるで詰問のように。そんな権利などないのに。
 択ばれたと思うことすら、きっと本当は傲慢なのだ。
「前に申しませんでしたか? 私が、貴方にお願いしたいと言ったと」
「ですからその理由を。私には、貴方に択んでいただける理由が見あたりません。貴方は、私を憎んでもおかしくないはずだ」
「憎むなんて。考えたこともありませんよ」
 首を横に振ってエアリアスはクリスの言葉を否定した。クリスはじっとその顔を見つめて、答えを待った。
 正解ならば、本当は予想がついている。クリスがただひとり、女の騎士だからだ。
 結婚の許されている宝珠の巫女が、最も身近な異性である守護騎士と結ばれた例は多い。だが今回、そのような期待を周囲や騎士本人に抱かせてしまうのは命取りになりかねない。エアリアスがそう考えなくても、神殿権力がそこで介入しただろう。
 そんなことを考えながら、こうやってエアリアス本人を問いつめてしまう理不尽さをクリスも自覚はしている。
「……貴方が、私とは正反対だから、かな」
 静寂の時間がしばらく続き、根負けしたようにエアリアスが吐息とともに言った。
「正反対……」
 鸚鵡返しに、その言葉を口の中で転がす。
「私が女だということですか」
「……それも、確かにありますね」
 エアリアスは否定はしなかった。それがなぜか胸に痛い。
 だが傷ついたそぶりを見せないのは、クリスの最後の意地だった。
 冷めた紅茶を飲み干して立ち上がる。
「もう遅いですから、失礼いたします。もちろん今日のことは口外などしませんからご安心なさってください」
「はじめから、心配はしていません。幻滅されたかなとは、思っていますけど」
 エアリアスは微笑した。クリスは律儀に正式な礼の姿勢をとり、そのまま踵を返す。
「おやすみなさい、クリス」
 穏やかな声が追いかけてきた。クリスは振り向いて、今度はごく簡素に頭を下げる。
「おやすみなさいませ、巫女様」
 完璧な笑顔で応えることに、成功した――はずだ。


 私室に戻ったクリスは、剥ぐように夜着に着替えると広い寝台に倒れ込んだ。騎士隊寮の固いベッドとは違う、肌触りの良い掛布が弾みでふわりと頬をくすぐった。
 ごろりと身体を半回転させると、落ち着いた象牙色の天蓋が目に入る。瞬きをするたびその像がかすかに揺れてにじんだ。
「泣く権利なんか、ないくせに」
 嗤う。
 あのひとは……こんな風に泣いたことが、あるのだろうか。ひっそりと、ひとりで。
 衝撃をうけたのは、護るべき巫女の性別が偽られていたことよりも、そうしなければならなかった彼の理由のほうだ。
 ただ生き延びるために生きる、そんな世界をクリスは知らない。生きることは当然のように達成されていて、どのように生きていくかが課題だった。
 惰性で生きたくないと、本当に自分の望むままに生きたいと騎士隊に飛び込んだけれど。それはとても真摯な望みだった、けれど。
 生きていられるならばしあわせだと、それが真実になる世界もある。
 目を背けていた、いや、視界にすら入っていなかったそんな世界にいたひとが己のあるじなのだ。 
 エアリアスが正反対といったとおり、なにもかもがあまりにも違う。そんな人を相手にして……なにを、語ればいいのだろう?
 気にしないでくれと、彼なら笑うのだろう。ふうわりと。そういえば彼の、笑み以外の表情を見たことがなかった。ただ一度、昼間に剣を交えたときのあの真剣な眼差しを除いて――
 明かりを落としてクリスは寝台に潜り込んだ。夢の中で、白珠の巫女がだぶだぶの騎士隊服を着て困ったように笑っていた。

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