白珠の巫女

だれよりも近くに


 扉が閉まる、ほんのかすかな音に、クリスは肩をびくりと震わせた。
 広い室内を照らす灯りは、さきほど侍女がともしていった燭台の小さな光だけ。ゆらゆらとゆれる炎に陰影濃く照らし出される室内は、昼とはまるで様子が違って見えた。
 石壁には厚いタペストリーが隙間なく下げられ、足許は足首まで埋まりそうな毛足の長い絨毯が敷かれる。いまは火の入っていない暖炉、マントルピースには葡萄酒の瓶と玻璃の杯、そして――部屋の中央に鎮座する、天蓋のついた大きな寝台。
 怖い。
 胸の中でそう呟きそうになって、クリスはそれを慌てておしとどめる。誰にも聞こえるはずのない声でも、それを形にするのは嫌だった。
(しっかりしろ、クリス=スタイン)
 その代わりに叱咤する台詞を、クリスは選ぶ。
(怯えるなんて――小さな女の子じゃないんだから)
 ぎゅっとこぶしを握り締めた。震えているのは、力が入りすぎているせいだ。断じて――そう、断じて、怖がっているせいではなく。
 クリスはこの春、24回目の誕生日を迎えた。ごく普通の女性であればとうに結婚して、子供のひとりやふたりいる歳だ。ましてやクリスの生家のような貴族では、そろそろ結婚十年目でもおかしくない。けれどもクリスは別な道を選んだ。剣の腕を磨き、騎士となり、父のもとから独立して自分自身の爵位を得た。
 ――それがまるで小娘のように怯えて震えているなんて。
 再び自分を叱ったのとほぼ同時、あたたかな体温が、そっと握ったこぶしに触れてきた。
 宥めるようにゆっくりと、指先が手の甲を撫でる。性急さのどこにもない、やわらかな動きに、少しずつ手の力が抜けた。褒めるように励ますように、ぽんぽんと手の甲を軽く叩き、それから手のひらに滑り込んできた自分のものでない右手が、包むようにクリスの左手を握った。
 緩慢にクリスは視線を巡らせて隣を見る。
 ともに部屋に入ってからひとことも発せず、身動きの気配もさせずにいた銀髪の恋人――いや、今日からは「夫」だ――は、クリスの視線を受けてにっこりと微笑んでくれた。
「落ち着いた?」
「……少し」
 瞬間迷って、正直に答える。ふふ、と笑みをもらして、彼は空いている手でクリスの頬を撫でた。
「緊張するなというほうが、無理でしょうね」
 やわらかい喋り方は、出逢ったときから変わらない。長い睫毛の縁取るアメジストの瞳もだ。それでも背が伸びた。声が低くなった。手だって昔はクリスのほうが大きくて骨ばっていたけれど、いまはほとんど変わらない。彼のほうが少し大きいかもしれなかった。
「……エアは?」
「もちろん。緊張していますよ」
「そうは見えない」
「そうかな。じゃあ、たしかめて」
 繋いでいた手に導かれて、左手をクリスはエアの胸に乗せる。絹の薄い夜着は滑らかな感触を伝えた。けれどもその奥の鼓動を感じ取ることができないのは、クリスの左手がいまだ、わずかに震えているからだった。
 こくりとクリスはのどを鳴らす。
 そして手の代わりに、右の耳をエアの胸に寄せた。
 クリス、と小さく呼ぶ、その声が、呼吸が、胸に響くのがわかる。そしてその奥、とくとくと脈打つ鼓動が、たしかにずいぶん速いことを知った。
「本当だ。速い」
 くすくすと笑う。頭の上で苦笑する気配があった。
「言ったでしょう」
 頬と手にあったはずのエアの両手が、いつのまにかクリスの背中に回されている。身長はあまり変わらないから、この体勢では抱き寄せるというよりは軽く包まれているような感じだ。互いの間の空間がなぜだか寂しくて、クリスはするすると頬を夜着に滑らせ、細い首に腕を巻きつけて、流れ落ちる銀髪に顔をうずめた。背中に回った手にぎゅっと力がこめられて、背中がしなる。
「……あいしてる」
 ほとんど二人同時にそう告げて、やはり同時に、抱き合ったままくすくすと笑った。


 笑いの余韻を残したまま、寝台まで抱き上げてはこびましょうか、とエアが言った。絶対いや、と答えたら、そう言うと思ったとますます笑う。
「そんなことされるくらいなら、私が抱き上げてやる……」
 その台詞は半ば本気でもあったけれど、結局はふたりで手を繋いで、歩いて寝台まで行った。
 ふかふかの布団の上に並んで腰かける。
 視線の置き所がなくて床を見ていたら、髪を梳いていた手がクリスの頭をそっと引き寄せた。頬と頬が触れて、離れ、その代わりに唇が降ってきた。頬からはじめて目尻に耳元にこめかみに髪に、額に、眉間に、そしてからかうように鼻の頭に。そして――唇に掠めるようなキス。もういちど。
 クリスは目を開いて、ほんのすぐ近くに紫色の瞳を見つける。目許がわずかに和んで、それで微笑んでくれたとわかった。こわばりがちの顔を無理にも動かして、クリスも笑みらしきものをつくる。
 瞬きした目は、無理しなくていいと言っているようだった。安堵してクリスは再び目を閉じる。
 三度目に合わせた唇は、すぐに離れては行かなかった。まるで呼吸を奪うように深くくちづけられて、クリスはかすかに喘いだ。空気を求めてひらいた唇に濡れた感触が忍び込んでくる。歯の付け根を探られる。背筋をなにかが伝い落ちるような感覚がして息を呑む。それはよりいっそう深くまで男を誘い込むことにしかならなかった。頭の芯が痺れはじめる。
 ここまではクリスもすでに知っていることだった。けれど、襟足から髪のなかへ差し入れられていたはずの手がゆっくりとおりてきて、絹地ごしに背中を撫で、そのままたしかめるように身体の線をたどりはじめると、覚悟を決めたつもりの心とは裏腹に身体がどうしようもなく強張ってしまった。
(どうして、こんな)
 剣を振るうときにはあんなにも自在に動かせる身体が、今夜はクリスを裏切ってばかりだ。恥ずかしさにクリスは顔を伏せる。毅然とできない己が情けなく悔しかった。
「……ごめ」
「ごめんなさいクリス」
 けれども謝罪の言葉を舌にのせるより先に、そう言ってエアがきつく抱きしめてくる。
 クリスは瞬きをした。こぼれる寸前の涙が睫毛にからんて空気に散った。
「クリスばかり怖いなんて、不公平だ……」
 ごめん、ともう一度。
 ――自然に笑みがこぼれた。
「……ばか」
 顔を上げて、両手でエアの白い頬を挟んで、目を合わせる。睨みつけるようにしてくちづける。
「だからって、いくら私たちだからって、逆にはなれないんだから」
 ほんとうは、自分が女でエアが男だと、思い知らされるのはいまも少しつらいのだけれど。
 身長を追い越され、力でも抜かれて、剣術ですら負けることが増えて、眠れないほどの悔しさをかみしめたことだって、あるのだけれど。
 それでも彼が男で、自分が女で、そうして出逢ったから、だからきっと、誰よりも近く近く寄り添うことができるのだ。
「大丈夫だから。……怖いけど、エアだから」
「クリス」
「――大好きだよ」
 その台詞は、最後まできちんと音にならなかった。言葉より雄弁なくちづけが唇をふさぎ、わずかに震える腕が、すがるように背中に回って痛いほどに抱きしめる。
(……貴方も)
(怖かったよね)
(怖がってくれてたね)
 嵐のようなくちづけにこたえながら、背中に寝具のやわらかさを感じながら、いつかの夜を思い出していた。
 あの日誓った言葉を、胸の中で繰り返す。

 そばにいます。
 ずっと。

 永遠に、そばにいます――――




<Fin.>

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