chapter.2 剣術の試合
心ゆくまで――といっても、弟妹たちを気遣って年長の二人はかなり馬足を抑えていたようだったが――原を駆け回ったあと、喉の渇きと軽い空腹を覚えた四人は休憩をとることにした。このあたりは庭も同然のヴィクターが迷いなく皆を導いた場所は、馬をつなぐのにちょうど良いささやかな木立と、腰を下ろしてひとやすみするのに適した草地、そして近くにはせせらぎも備えていた。
馬と自分たちの喉をうるおしてから、一行はスタイン家から持参した軽食をひろげた。公爵家お抱えの料理長は、年少の二人には甘い焼き菓子を、年長の少年たちのためには鶏のあぶり焼きとピクルスをはさんだ薄いパンを用意してくれており、それらは瞬く間に四人の腹の中におさまった。
「ピート」
「うん?」
「腹ごなしといかないか」
手早くまとめた荷物を元のように馬の鞍にくくりつけたヴィクターが、代わりに別のものをはずして振り返りざま、ピーターのほうに放ってくる。ピーターは慣れたしぐさで片手を差し出すと、宙を飛んできたフルーレ――剣先を潰した練習剣を、ぱしりと音を立てて掴んだ。
「危ないなあ。受け止め損ねたら大変だよ」
「おまえが落とすわけないだろう。さて、ひと勝負どうだ?」
自分用のフルーレを掲げて、ヴィクターはにやりと笑う。おとなびたところの目立つ彼も、そんな表情は存外に子どもだ。
(やった!)
エドマンドは内心で快哉を叫んでいた。
スタイン公爵家の長男ヴィクターといえば、十四歳とは思えぬ剣術の名手としてすでに名高い。そして、そのヴィクターと並び称されるのが、エドマンドの実兄であるピーター=フランシス=カートネルだ。憧れの兄とその親友との勝負は、エドマンドが1年前に正式に剣を習い始めてから、いつか観たいとずっと願っていたものだった。
――だがエドマンドの希望とは裏腹に、ピーターは気の進まない顔だった。
「別の日なら、望むところ、と言ってるけどね。おちびさんたちがいるだろ」
「にい――」
自分なら平気だと主張しようとして、エドマンドは兄の気遣わしげな視線の方向に気づいて口をつぐんだ。そこにはクリスタルがちんまりと行儀良く草原に座って、兄たちのやりとりをきょとんとした顔で見上げている。
考えてみればあたりまえだった。クリスタルはエドマンドより年下で、しかも女の子だ。剣術になど興味はないだろうし、たったの八歳では、怖がってしまってもおかしくはない。
残念だけれど次の機会を待とう、とエドマンドが自分を納得させようとしたときだった。
「エドマンド、レイピア嫌いなの?」
当のクリスタルが、不思議そうに首をかしげて問いかけてきた。
「――え?」
あまりにも意外な問いに、エドマンドは目を円くする。
「ヴィクター兄上とピーターどのの勝負なんて、めったに見られないのに……」
いかにも残念そうに唇を尖らせて言い募るそれは、ついさっきエドマンドが彼女に抱いた不満とまるで同じだ。
(ええ、と)
「あの……好き、だよ?」
何を言えばいいのかよくわからなくて、とりあえず口から出たのは先ほどの質問の答えだった。
その間もエドマンドの頭の中では疑問符がぐるぐると渦を巻いている。さぞかし珍妙な表情をしていることだろう。
けれども目の前の少女にとっては、知り合ったばかりの少年の表情よりもその唇から出た言葉のほうが重要なようだった。
「よかった!」
ぱあっと顔を輝かせ、期待に満ちた顔でクリスタルは兄を振り返った。そのヴィクターは、にやにや笑いを満面に浮かべながら、言葉ばかりは真面目に妹を呼ぶ。
「クリスタル」
「はい、兄さま」
「おれとピートがいまから何をするか、わかるな?」
「剣術の手合わせでしょう? ピーターさまと兄さまの試合、初めてだから、とても楽しみ」
「念のために確認するが、怖がったりしないよな?」
むっ、というようにクリスタルは顎を上げた。きっぱりと言い切る。
「怖がったりなんてしません。いつも見てるもの」
「よーし」
ひとつ頷いて、ヴィクターはクリスタルの華やかな金髪を撫でた。その姿勢のまま、親友に肩越しに笑いかける。
「と、いうわけだピート。こいつ、いつも俺やアレクにくっついてるからな。フルーレどころかレイピアでも怖がりやせんさ」
「……了解。つくづく個性的だね、きみの妹さんは」
呆れたように肩をすくめ、ピーターは手の中のフルーレをくるりと一回転させて握りなおした。それはカートネル家長兄の、気持ちを切り替えるときの癖だ。
そうして、エドマンドの当惑をよそに、年長者同士の対決は執り行われることに決まったらしかった。
呼吸を読みあうような一瞬の静寂のあと、ヴィクターが先に仕掛ける。いくつかのフェイントを織り交ぜた突きをピーターのフルーレが跳ね上げ、たちまち激しい打ち合いが始まった。
それぞれが卓越した技量の持ち主である上に、実力の伯仲した二人である。目まぐるしく攻防を入れ替え、なかなか決着がつかない。上背があり、膂力で優るヴィクターと、俊敏さが身上のピーターでは得意とする戦法も全く異なる。それがまた、この二人の対決を見応えのあるものにしていた。
エドマンドは両手を握りしめ、瞬きをすることも忘れて目の前で繰り広げられる熱戦に見入っていた。
(すごい、すごい……!)
心が躍る。
先刻感じた当惑など、とうにどこかに行っている。胸を占めるのは、ただひたすらに憧ればかりだ。
「あんなふうに、なりたいな」
そう。そうだ、あんなふうに強くなりたい――
(――え?)
ぱちくりとエドマンドは瞬きをする。
(僕じゃない……いまの)
その呟きは、隣に座った少女の唇から漏れたものだった。
「どうして、みんな、だめって言うのかなあ……兄さまみたいに、強くなりたいのに」
まっすぐに前を見詰める瞳に憧れを宿して、ため息のようにクリスタルは独りごちる。
その台詞の意味を、エドマンドはすぐには理解できなかった。
頭の中で少女の口にした言葉をなぞってみる。
(兄さまみたいに)
(――強くなりたい?)
……それはつまり。
クリスタル本人が剣を取る、ということだ。
ぎぃんっ。
重い金属音に、エドマンドは慌てて視線を戻した。
ヴィクターがピーターのフルーレを大きく弾き、その喉元に剣先を突きつけていた。一瞬悔しげに瞳を揺らし、しかし次の瞬間大きく息を吐いて、ピーターが身体の力を抜く。両手を上げる降参の仕草を確認して、ヴィクターもまたフルーレを戻した。
「これでおれが2つ、勝ち越しだ」
「またそうやって水増しする。今日までがちょうど引き分け、いまのでひとつだよ」
「そうだったか?」
兄たちの軽口にまじって、 ふーう、と可愛らしいため息がすぐ近くに聞こえた。クリスタルが身体の緊張を解いて、ぺたりと座り込んでいた。頬が真っ赤に染まっている。
(あんなふうに)
呟く声が、脳裏に甦る。
「こら、エディ」
頭を小突かれて、見上げると兄のしかめ面があった。
「途中、よそ見してたね? 言っただろう、観戦しているときも気は抜かないこと。ちゃんと守らないと、練習に付き合ってやらないぞ」
「だって、」
反射的にエドマンドは抗議の声を上げていた。
剣術に関して、尊敬する兄の言いつけを守らなかったことなど、これまでだって一度もない。なにより、ずっと楽しみにしていた対戦から気を逸らしたと、兄やヴィクターに思われるのはたまらなかった。
「だってクリスが変なこと言うんだ」
めったにない末弟の口答えに、ピーターが表情を険しくする。
「人のせいに――」
「だって!」
後に引けなくなって、エドマンドはいっそう声を張り上げた。
クリスタルと友達になろうと思ったことも、うれしそうな笑顔を可愛いと感じたことも、すっかり頭の中から消えていた。
このおかしな少女のせいで、どうして自分が兄に叱られなければいけないのか。
――理不尽だ。
「強くなりたいって、言うんだよ! 女の子のくせに!」
言い放つのと同時、クリスタルがこちらを振り向いた。金の髪が、ぱっ、と翻る。
……そのときの少女の表情を、エドマンドは決して忘れないだろう。
もともと大きな瞳を、さらに大きく見張ったのが、最初の一瞬。
小さな唇が物言いたげに開いて――そして次の瞬間、ぐいと引き結ばれた。
金色の睫毛に縁どられたブルーグリーンの瞳が、瞬きもせずにエドマンドを見据えてくる。それはほとんど、睨み付ける、に近い視線だった。年齢に不似合いなほどの、強い、つよい目の光。
強い、けれども、奥にそれだけではないなにかを湛えた光だった。
唇がわなないて、低い声を絞り出した。
「……やっぱり、エドマンドもみんなとおんなじ」
「クリス?」
眉根を寄せて呼びかけた兄に見向きもせず、ひたとエドマンドに視線を合わせて、クリスタルは続ける。
「クリスが女だから。女のくせに馬に乗るから。女のくせに剣が好きだから。みんな変な目で見て困ったみたいな顔して、それはだめだよって言う。父さまだって兄さまたちだって、馬には乗せてくれるけどレイピアは見るだけ、触っちゃだめだって言う。女の子は剣術なんてしないんだよって」
握りしめて地面に押しつけた、幼いこぶしが震えていた。
「だれにも、なんにも、悪いことなんてしてないよ。お勉強だってちゃんとやってる。お行儀の時間も、きらいだけど兄さまたちみたいに逃げだしたことなんてない。ダンスだって、先生に誉められたもの。なのに、どうして。どうしてクリスだけ駄目なの。やらせてもくれないのに出来ないって決めるの! 女の子だから、それだけで!!」
エドマンドには応える言葉が見つからない。
ただ身体を硬くして、クリスタルが吐き出す言葉を聴いていた。
「エドマンドは、みんなと違うと思ったのに。うれしかったのにっ!」
「クリス!」
ヴィクターがクリスタルの肩を引き寄せて怒鳴りつけた。
「かんしゃくを起こすのもいいかげんにしろ」
「――っ」
きっとヴィクターを見上げ、クリスタルは乱暴にその腕を振り払って駆け出した。立ち木に括られた馬の手綱をはずして鞍にまたがると、馬腹にひと蹴りくれてあっという間に飛び出す。
「クリス!」
エドマンドの呼ぶ声に、金色の頭は振り返りもしなかった。蹄の音だけが遠ざかる。
――身体が、勝手に動いた。弾かれたように自分の馬に駆け寄るエドマンドを、ピーターが慌てたように呼び止めた。
「エディ?」
「僕、――謝ってくる!」
無意識に出た台詞だった。そのとたんに、自分が何をしに行くのかを知る。
(ごめん)
(ごめんね、クリス)
まぶたの裏にあるのは、すれ違った刹那の横顔だ。
眼にいっぱいに涙を湛え、けれどもそれをこぼすまいと懸命に我慢している顔だった。
あの子はいつもこうやって、ひとり馬の背で泣くのだろうか。
馬上で伸び上がるようにして、エドマンドはクリスタルの姿を探す。――いた。もうずいぶんと小さくなった背中が、スタイン邸とは反対の方角に駆けて行くのが見えた。
追いつけるだろうか。
いや、追いつかなければ。追いついて、ごめんと言って。
ほんとうは、なにがクリスタルを泣かせたのか、エドマンドにはまだ良くはわかってはいなかった。ただ、少女の怒りと、そして涙が本物だということはわかる。
それから、自分が心底、あの少女に謝りたいと思っていることも。
もう一度あの少女に、エディと呼んで欲しかった。
追いかける理由なら、たぶん、それだけで充分だ。
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