ぎりしあ奇譚

第三章


 天界・人界を問わず噂の的となり、その華燭の典は一千年の伝説になろうと語られた、美しき青年神の婚約はしかし、とうとう相手の名が公にされることのないまま、ひそやかに破棄されることとなる。

 彼の妻となるべき、トロイアの王女カッサンドラの発狂が(ゆえ)であった。


「アルテミス」
 名を呼んだ兄神を月の乙女は振り向いた。
 首尾よく大きな鹿を仕留め、いつもの湖へ向かうところだった。きゃっと悲鳴を上げて、とりまきの数人が道を逸れて木立の奥へ身を隠す。
 つねの、人を食ったような笑みはなく、アポロンは彼らしからぬ無表情だった。どんな表情を選択したら判らないというような覚束なげな――それは、彼にはもっとも似つかわしくないものだ。
「……元気ないのね?」
 小首を傾げて女神は兄を見やる。ふと目を細め、肩越しに顎をしゃくって見せた。心得たもので、頷きひとつ返してエルザとヘリアが、女神の巫女を束ねてその場からすばやく姿を消した。
 アルテミスがアポロンと顔をあわせるのは、半月ぶりのことだった。最後に逢ったのは、彼の婚姻の噂を確かめに行った日だ。アポロンの広い胸の中に、背中から抱きすくめられた日。ずっと顔を背けていた事実を、ひきずりだして突きつけられた、その日。
「アルテミス」
 二度、アポロンは妹の名を呼ぶ。
「聞いたわ。カッサンドラのこと」
 まるでただの妹のような口ぶりで、アルテミスは応じた。
「お気の毒ね」
「――アルテミス!」
 三度。
 アポロンの手がアルテミスの二の腕を掴んでひきよせた。あの日とよく似た仕草、けれどもこもる力が違う。碧天の瞳のいろが違う。
「痛いわ、兄様」
 どこか緩慢にアルテミスは掴まれた腕に目をやって、苦情を訴える。
 そして視線を兄へ戻した。
「……おまえか?」
 太陽神は苦渋に満ちた表情で、低く声を絞り出した。
「そうよ」
 視線の動きにあわせて、アルテミスはゆっくりと顎をあげる。
 挑むように。
「あたしよ」
 形のよい唇がつむぐ言葉は、かすかに震えて、けれどもそれをねじ伏せるつよさを伴っていた。
「あたしが言ったわ。あの子の侍女に化けてね。アポロンの愛を確かめたいなら、お願いして御覧なさいって。欲しいものをくれると言うなら、予見の力を貰ってそれで確かめなさいって、未来永劫愛してもらえるかどうかを確かめなさいってね!!」
 ――そうして、愛されぬ己を見つけたトロイの王女は(たぶ)れたのだ。
 太陽神への怨嗟を紡ぎ続ける口を封じるために、アポロンはカッサンドラに呪いをかけるほかなかった。一度与えた神の力を奪うことは出来ないのが決まりだ。決して外れぬ予見の力を得たカッサンドラの言葉に、けれども耳を傾けるものはいまや誰もない。そのようにアポロンが、彼の力をもって定めたのだった。
「兄様がいけないのよ……カッサンドラの言うことなんか、聞くから」
 アルテミスの声の震えが大きくなる。
「兄様がいけないのよ」
 自由なほうの手のこぶしで兄の胸を叩いて、アルテミスは言い募った。
「知ってるのよ。判っていたんでしょう。こうなるくらい兄様にだけは判ってたはずだわ! 判っててカッサンドラを狂わせたわ、そうでしょう!?」
 太陽神はほんのわずか目を細める。
 碧眼の光がゆっくりと濃くなった。ひそめられた眉が美しい弧をとりもどす。
「…………ああ」
 妹の腕から手を放し、指に絡まっていた白銀の髪を弄びながら、アポロンはごまかしはせず頷いた。
「そうだよ。俺は知っていた。おまえがカッサンドラになにを言ったかも、真実を視たカッサンドラがどうなるかも、知っていたよ。……俺に差し出した娘に狂われたトロイアの王が、俺にどれだけの奉納をしてくれるかもね」
 妹神が婚約者に吹き込んだ、大それた望みに、否と言うこともアポロンは出来たのだ。なにかに衝き動かされるようにトロイアの王女を煽りながら、アルテミスは心の冷静な部分がそう告げるのを聞いていた。こんなことには意味がない。王女を愛していないと言った兄が、彼女に真実を見せるはずはないと。その滑らかな舌でもって、うまく王女をなだめるだろうと。
 だが太陽神はそうはせず、代わりに望まれるまま、破滅をもたらす予見の力を婚約者に与えた。
 ――まぎれもなく、ふたりは共犯者だった。
 アポロンの手がゆっくりと伸びて、妹の頬を大きな掌でつつんだ。
「知っていたよ。おまえが来ることも」
 穏やかにくりかえす。
「知っていたよ。あの子をおまえが許さないことも」
 アルテミスが静かに目を閉じた。目尻に溜まっていた透明な雫が、その拍子に頬を伝って零れ落ちた。
 呟くように月の女神は言う。
「カッサンドラなんかにあげない」
 激情はすでになく、彼女の統べる夜のごとき静けさが、ただあった。
「逃げるなんて許さない。兄様がいけないのよ。――あたしを愛してるくせに」
「――ああ」
 銀色の髪を梳いて、耳の後ろへすべらせた手で、アポロンは妹の頭をひきよせた。逆らわずアルテミスは兄の胸に頬を寄せる。
「ばかね、兄様。あたしに聞こえる噂なんか、立てるから駄目なのよ」
 いつものように遠慮のない口ぶりに、アポロンが低く笑うのが、振動となってアルテミスに伝わった。
「白状するとね。おまえが妬いてくれればいいと思った」
「そう。ばかね」
「そうだな」
 また笑って、アポロンは両腕に力を込め、アルテミスの華奢な身体を抱きしめる。
 女神の身体が震えた。
 長身をかがめて、妹の耳元にアポロンは囁きかける。
「アルテミス。俺の半身。生まれたときから、おまえを愛しているよ」
 アルテミスの喉から、押さえきれない嗚咽が漏れた。しゃくりあげる間隔が、少しずつ短くなる。
 ぽろぽろと涙を零して、兄の胸でアルテミスは泣きじゃくった。細い腕がアポロンの背中にまわされ、縋りつくように衣装を握りこむ。
「兄様」
「うん」
「にいさま」
 子供のように繰り返すアルテミスの銀の髪を、アポロンはやわらかく梳き続けた。
 どれだけそうしていだだろう。
「……にいさまがすき」
 泣き声の合間に、ちいさくちいさくアルテミスが告げた。
 辿りついたのは絶望的な真実。
 口にしただけで世界を壊すかもしれなかったその想いを、けれどももう手放すことは出来なかった。
 いまこの瞬間に、父の雷撃がふたりを撃ち殺してくれればいいのにと願いながら、アルテミスはやっと手に入れたぬくもりに、疲弊した身体をただ委ねていた。
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