CARD VI ―― Lovers


第二話  "花見"

【1】

 桜が咲いたから、花見に出かけよう。
  瀬能朔がある日突然そんな電話をかけてきて、三十分後には真田麻里亜は外出の支度をしてマンションの玄関口に立っていた。
  あのとんでもなく目立つ二人連れの姿はとりあえず見当たらず、彼らがやって来るはずの駅方面へ麻里亜は視線を向ける。
  と、背後で派手なクラクションの音がした。
  反射的に振り返って、麻里亜は絶句する。
  クラクションの主は、真っ赤なオープンカーだった。しかもそうそう見かけないクラシックなスタイルだ。
「おーい、麻里亜!」
  そして助手席で立ち上がってこちらに手を振っているのは見間違いようのない――よほど間違いだと思ってしまいたかったが――瀬能朔その人の、姿であった。

「こちらへどうぞ、お姫様」
  早足で車に歩み寄った麻里亜の前に、朔はドアを飛び越えてひらりと地面に降り立つと芝居がかった仕草で後部座席のドアを引いた。
  促されるまま運転席のうしろに腰を下ろす。ハンドルを握っていた人物が肩越しに振り返り、サングラスを押し上げて微笑した。
「やあ」
  その笑みの神々しいとすらいえる美しさに惑わされないくらいには、麻里亜は彼――高都匡の容貌に耐性ができている。
「……この車は、いったい」
  挨拶ももどかしく訊ねると、匡はあっさりと答えた。
「借りたんだよ」
「どーせなら面白い車のほうがたのしーだろ?」
  またもや横着にドアをまたいで助手席に戻った朔が、心底楽しげな表情で言い足す。
  麻里亜は長いながいため息をついた。
「……私は普通の車のほうが嬉しい……」
「え、駄目だった?」
「ああ、やっぱりね」
  ふたり同時に正反対の返事をする。麻里亜は思わず吹き出した。
「もう、いい。花見に行くんだろう? 出かけよう」
「んだな」
「では、参りますか」
  笑みを交わし、匡がアクセルをふかす。
  鮮やかな真紅のオープンカーは、なめらかな動きで走り出した。

【2】

 見事な運転技術を披露しつつ、匡は車を川沿いに郊外へと走らせた。
  川土手にはずらりと桜の若木が植えられており、今を盛りと咲き誇る薄紅の花が風が吹くたびに大気を舞って、三人の肩や髪を飾った。
  始業式直前の、平日の昼の道路はがらがらに空いていて、のんびりと走りながら心ゆくまで桜を眺めることができる。
  河川敷に降りる道を目ざとく朔が見つけて、車を停めるとしばらく三人は座ったまま空を見上げた。
  桜の花弁のやわらかなピンクと、その向こうに見える春の良く晴れた空の淡いブルーとのコントラストが美しい。
「きれい……」
「キレーだな」
「綺麗だね」
  三者三様の、でも同じ内容の感想を呟いて、それからまた無言で花に見入る。
  毎年春になるたびに出逢う風景なのに、どうしてこんなにも心に染み入るのだろう……?
  心の片隅で麻里亜はそんなことを考えたが、今見ているこの風景を自分が美しいと感じていることは確かだった。
  それだけで、いいのだ、……きっと。

  つんつんと肩をつつく指に麻里亜は気づく。
  横を見ると瀬能朔が、唇に人差し指を当て、もう片方の手で車外を指差していた。
(…………?)
  わけのわからないまま、そのとおりに音を立てないよう車を降りる。
  朔に手を引かれて車から離れながらそっと振り返ると、高都匡は夢見るような半眼で、身動きもせず薄紅ごしの空を見上げていた。
  かたちの良い唇がため息にのせて呼んだ名を、麻里亜は知らない。

【3】

「このへんでいっか」
  互いの声が普通にしていれば届かない程度の距離、オープンカーから離れると、朔はそう言って足をとめた。
「いきなり引っ張ってきてゴメンな、まりあ」
  率直な謝罪に、いや、と麻里亜はかぶりを振る。
  去りぎわのあの表情だけで、高都匡を一人にしてやりたかった朔の気持ちは理解できるような気がした。
  川を渡る、ほんのすこし湿気を含んだ風が、麻里亜の色素の薄い髪をふわりと揺らしてゆく。
「……気持ちいいな」
  うららかな陽射しと、暖かい風と、美しくのどかな景色。
  それが本当に、泣きたいくらいに心地良くて、どうしようもなく麻里亜は微笑む。
「春が気持ちいいのなんて、何年も忘れていた気がする……」
「――そっか」
  朔はそれだけの返事をした。
  二人並んで、ただ、風に吹かれる。
「なぁ、まりあ」
「なに?」
「また一緒に桜見ような」
「……ああ」
  指先だけがまだ、二人のあいだでつながっていた。

  高都匡は目を閉じる。
  あの山村の奥の、桜に囲まれた屋敷。
  泣いていた白い少女。
  その記憶は永い時を経てもかけらも色褪せずに、いつも脳裏にある。
「……愛しているよ」
  そっと風に囁く。
  自分すらも種を知らない魔法が、大切な少女にその言葉をはこんでくれることを祈って。
  ひたすらに、ただ、祈って。
「いつか必ず、君の許へ帰るよ」
  誓いの台詞を繰りかえす。

  記憶のむこうで少女がしあわせそうにわらった。

  車を降りたらしい匡が大きく手を振って寄越したので、麻里亜と朔はもと来た道を子供のようにはしゃいで駆け戻った。
  自慢げに朔がトランクから出してきたレジャーシートを、ひときわ見事な枝ぶりの桜木の下に広げると、どこから取り出したのか匡が塗りの重箱に詰めた弁当をそのうえに並べた。
「じゃーん」
  というおどけた効果音も頷ける豪勢な料理の数々に、麻里亜は目をまるくする。
「匡ー、卵焼き! たまごやきたまごやき!」
「はいはいここにたくさん入れてあるから」
  幼稚園児のように朔が連呼し、匡が呆れ顔で面積の半分卵焼きの並んだ容器を手渡す。
「これ、……高都が?」
  二度驚いて麻里亜は重箱を指差した。
「久々に腕を揮わせていただきました」
  不敵に笑って匡はそんなことを言う。
「っておい、俺に作るときのは手抜きかぃ」
「張り合いが違うんだよ」
  言いながらも匡は手を休めない。箸袋を配り水筒から湯気の立つ日本茶を三人分のカップに注ぎ取り皿をまわし、準備が整ったところでさあどうぞと両手を広げた。
「……母さんみたいだ……」
  ぽつりと呟いた麻里亜の台詞に朔が容赦なく大爆笑する。
  匡が無表情にその頭をぽかりと殴った。
「じいさまと、父さんと母さんと、四人で。こんなふうに食事をしたな」
  無視して麻里亜は続ける。
  喧嘩のふりをしながら、ふたりがやわらかな目のいろをして聞いてくれているのを知っていた。
  箸を伸ばして卵焼きをつまみあげ、口の中に放る。
「美味しい」
  笑うと、ふたいろの笑みが返ってきた。

【4】

 真っ赤なクラシックカーは夕日を右手に川べりを下る。
「今日は楽しかった。ありがとう」
  風の音に負けないように声に力をこめて、麻里亜は前方に座る二人に声をかけた。
「どういたしまして」
  ハンドルから片手だけあげて匡が言い、
「またこやって遊ぼーな」
  身体をねじって振り返った朔が言う。
「そうだな、でも……」
  風になぶられる髪を耳のうしろによけながら、麻里亜は片眉だけしかめて見せる。
「願わくば、次からはもう少し普通の車で頼む」
  返答の代わりに、車内にはしばらく笑い声だけが満ちていた。

第二話 了


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