CARD VI ―― Lovers


第一話  "栞"

 背丈だけで見るならば、成人した大人と変わらない。
 だが着衣から覗く手足の、骨ばかりが伸びたような印象が、彼を少年と認識させている。
 無造作にまとった衣はあちらこちらに裂け目があり、背中まで届く黒髪は結い上げずにただ紐で束ねていた。そんな格好でもすさんだ雰囲気のかけらもないのは、彼の驚くほど整った顔立ちとそこに浮かべた穏やかな笑みによるところが大きいだろう。無論よく観察すれば、着衣のもともとの仕立ての良さだとか、黒髪に滑らかな艶が失われていないことなども見て取れるのだが。
 季節は、春である。山道に沿っては住人がわざわざ植えたものだろう、桜の若木が花の盛りを声高に歌っていた。髪をなぶる風が、ときおり花弁を宙に踊らせる。
 足許の良くない坂を、重そうな荷を担いで女がひとり降りてきた。ゆるやかな足取りで坂の上に向かう少年へ、不信げな眼差しを送る。坂の上には小さな山村があるばかり、どこの街道と通じるでもない。来訪するに足る目的が、あるはずもなかった。
 だが少年は女の視線に怯むでもなく、それどころかすれ違いざまににこりと笑ってみせた。際立った美貌のつくる笑みに女は思わず目を奪われ、足を止めて呆然と、歩き続ける少年を眺めた。そしてやっと、この外来者の目的らしきものに思い至った。
「桜のお屋敷に行くのかい」
 声をかけるのに逡巡していたせいで、少年はずいぶんと向こうまで足を進めていた。それでも聡く振り返って、首を傾げて女を見やった。
「あたらしいひとだね。誰でもいいけれど、とっとと連れてっとくれよ。そういう約束だろ」
 それだけ言い放つと、返事の暇を与えずに女は踵を返した。
 足早に坂を下る背中を、奇妙に感情の見えない瞳で見送り、少年は変わらぬ足取りで坂の上の村を目指した。

 少年の名を匡という。

 午後を半分使って匡は村の中を歩きまわった。一点を除いては本当にただの小さな村だから、一軒一軒をじっくり眺めたとしてもそれほど時間はかかるものではない。暇つぶしにすらならないが本人には意味があるようで、つまらなそうな表情は一度たりとその顔にのぼりはしなかった。
 突然やって来た、明らかに住む世界の違いそうな美貌の少年に、当然ながら村人たちは不審を隠さなかった。しかし、不躾な視線をいくつも浴び刎ねつける言葉ばかり聞かされても、匡のほうに意に介する素振りがまるでない。むしろ面白がっているようだった。
「あのお屋敷には誰が住んでる?」
 村の子供たちが大人とはなれた時を狙って、匡はそう問いかけた。この村に来てからまともに喋ったのはこれが初めてだった。
 あの、と指差した先は、集落とは少し山のほうへ離れ、だが完全な孤立はしていない場所にある一軒の家屋である。それだけがこの村の、特徴と言える特徴だった。
 一瞥して村のほかの建物とは堅牢さが違う。そうしてその周りには覆い隠すかのように大量の桜が植えられて、まるで薄紅の霞がかかっているようだ。
「さくらのおやしき?」
「そう」
「あそこに近づいちゃあ、いけんのじゃ。とうちゃんが怒りよる」
「なぜ?」
「さくらのおやしきは鬼っ子の家なんぞ」
「おやかたさまは鬼女を娶ったんよ」
「そいで鬼のあいのこがうまれたん」
「桜は鬼封じの樹だから、おやかたさまはああやって鬼の気が抜けるのまっとるんやって」
「これ内緒なんぞ。内緒やけ、おれらぁおやかたさまにお米わけてもらえとぅ」
 口々に子供らが情報を提供する。村の外の人間と喋るのが珍しいのと、とっておきの秘密を話してやる楽しさで、どの顔も興奮して紅潮していた。
「でも、このごろおやしきにひとが来んようになった」
「飯炊き女も、見えんようなったなぁ」
「じゃけぇこのごろは、村のもんが交代で握り飯もってくことになっとる。昨日は、うちのかあちゃんの番やった」
「あ、なぁあんたおやしきの新しいひと?」
 思いつきに大きな目をきらきらと輝かせてひとりが尋ねた。
「いいや、違うよ」
「あほぅ。それやったら知らんはずないやん」
 勝気な面差しの少女がその頭を小突く。周りがどっと笑って囃し立てた。
「いてぇー。でもおやしきに行くんやろ? やったら、おれらで案内したるわ」
「そや、とうちゃんらに見つかったらどやされるけぇね。うちらの秘密の道使うとええよ」
 両側から袖をとられて、匡は苦笑する。
 情報源を子供に求めたのは正解だったが、こんな軍団を引き連れて動けるものではない。
「や、悪いが遠慮しておく。今すぐ行こうってんじゃないんだ」
「ちえー」
「じゃあね」
 なんとか袖を奪回して、手を振って匡は子供達と別れた。
 のちに村の子供達のあいだで、「この時の若者は男か女か」の大論争が勃発したことは言うまでもない。

 逢魔が時。
 山の夕暮れは日没からが長い。茜の世界を、桜の霞で透かして匡は眺めていた。
 あまりに見事な夕焼けが血の色のようで痛い。それでも目を瞑ることは匡にはできない。目を閉じてしまうと、血の幻はより強く襲い来るから。
 ……いつだって朝は来るのに、どうしてこの時刻は世界の終わりに思えるのだろう。
 かすかに息をついて匡は桜の幹に背を預けた。眠りまでは、期待していなかった。

 うたたねよりはやや深い休息を、なんとか得ることができたようだった。
 朝日の気配に匡は目を開く。うす紅ばかりに囲まれていることに違和感を感じたのは一瞬、すぐに昨日桜の樹上で寝たことを思い出した。不安定な寝場所で落ちもしないのは、特技と言うよりは必要だったからだ。
 音もなく樹から降り、朝露で手拭いを濡らして顔を拭く。
 顔を上げればすぐそこに、繚乱の花々に抱かれた桜の屋敷が見えていた。

 遠目で見ればどこの殿様の別宅かと思う屋敷ではあるが、近づくほどに馬脚を現すのがいっそ笑いを誘った。
 手入れなど建てられてこのかたされたことがあるのかという薄汚れかた。広さに反して人の気配がまるでない。堂々と侵入しても、見咎めて怒鳴るものもない。
 廃屋でない証拠が、奥の部屋のひとつと土間とにかろうじて残っていた。ぬくもりの残る寝具と、齧った跡のある芋がそれだ。だが肝心の住人と遭うことは叶わなかった。
 庭に戻り、今度は屋敷の周囲を巡る。十重二十重の桜のせいで迷路じみて歩きづらかった。
 ふと匡は目を細めた。
 耳に届いたものがあった。ここに来て初めて聴いた人の声。
 泣き声か。
 それは前方から聴こえるらしかった。
 桜をふたつかわすと目の前が開けた。

 彼女はそこにいた。

 土を踏むほんのわずかな音を聴いたか。人の気配を読んだか。
「だぁれ」
 涙に汚れた顔がこちらを向いた。
 異形だった。
 たしかに今太陽の下にいるのに、一度として陽光を浴びたことがないのではないかと思わせるほどに白い肌。その肌よりなお白い、雪白の髪。
 子供らしい小さな唇と、そして眸だけが色を持っていた。赤という色を。
 血のいろの眸に見つめられて匡はらしくもなく狼狽を感じていた。

「そこにだれかいるの」
 かさねて少女が問うた。瞬きをしてそしてやっと匡は気づく。少女の赤い眼は匡を見ているのではない。匡のいる方向を向いているだけだった。
「いないの? わたし、またまちがえたの?」
「……いるよ」
 間違えたの、と俯くしぐさが哀れでそう応えた。
 すると少女は微笑んだ。とてもとても嬉しそうに、笑った。
「良かった。はじめての、ひとね。私、逢ったことないのね」
「うん」
「あのね。ちぃが死んだの。ちぃは小鳥なの。籠から出したのに、逃げてしまわなかったのね。でも餌がとれなかったんだわ。冷たくなってたの、見つけたから、おはか作ったのよ」
「……それで泣いてたの?」
「そうよ。ちぃのぶんと、しおりのぶんと、泣いたの」
「しおり?」
「わたしのなまえ」
「ふぅん」
「あなたは?」
「え?」
「あなたのなまえ」
「……ああ」
 名を告げることで、この紅の眸に囚われてしまうかもしれない。
 けれどそれもいいかもしれないと、思った。
「……匡、だよ」
「そう」
 少女はふぅわりと微笑った。桜いろの笑みだった。

「ねえ」
「うん?」
「匡は、父さまのところから来たひと?」
「いや、違うよ」
「……そう」
 しおりは残念そうな顔をする。
「前はね、わたしだけじゃなかったの。わたしのできないことをしてくれるひとがいたし、父さまの使いってひとが、お話をしに来てくれていたわ。でもいまはだれもいないの。だれもこないの」
 小さな手が、薄汚れた、最初は赤かったらしい着物の裾を握りしめた。
「わたし、いらなくなったのね」
「なにかほかに理由があるかもしれない」
 慰める台詞を匡は口にする。そうしなければと思った。
 しおりが首を傾げて見上げた。
「……おかしいわ」
「なにが?」
「匡は、わたしのこと怖がらないの」
「……ほかのひとは、怖がるの?」
「だってわたし、鬼のこどもなのだもの。ばけものなのでしょう。すごく醜くて怖い顔なのよ、それなのに、匡はどうして平気なの」
「……怖くないよ」
 匡は右手を伸ばして、しおりの真白の髪を撫でた。
 しおりが驚いた目をする。
 怯えではなく。
 触れられた記憶すらこの白い少女にはないのかもしれなかった。
 疎まれ遠ざけられ怖がられ。ただ、ひとと異なる容姿に生まれただけで。
「俺はしおりを怖がらない。しおりは化け物なんかじゃない」
 細い髪を指でくしけずりながら匡は繰り返す。
「化け物は……ひとと同じ姿をしていて、それでもひとではないものだ」
 たとえば、この自分のように。
 胸のうちでそうつけくわえる。
「匡は?」
「え?」
「匡は、ひと?」
 肯定したいと思った。
 否定するしかないのを知っていた。
「……どうかな。どう思う?」
 だから卑怯な反問をした。
 しおりは真面目に考えこむそぶりをする。
「……わからないわ」
 そしてふいに微笑んだ。
「でも、そんなことどうでもいいのね」
「どうでもいい?」
「だって匡はわたしを怖がらないし、わたしは匡のこと怖くないもの」
 しおりは手探りに匡の左の手を探しあてて、頬をよせる。
 目を閉じて。
 うれしそうに。

「……俺と行く?」
 囁くように問うた。
 白い少女は首を傾げた。あどけない顔に思案の表情を浮かべる。
  そうして。
「行く」
 こっくりと頷いた。

 小柄な体は、抱き上げると想像以上に軽かった。

 桜の樹の下で。
 鬼の少年が、鬼の娘を攫っていった。
 それからの二人のことは、……それはまた、いつか語ろう。



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