白珠の巫女

STAGE 10


 長い沈黙があった。
 クリスは左手に目を落とした。エアリアスの右手の中からするりと指を引き抜く。エアがけげんそうに、クリスの髪に触れていた逆の手を止めておろした。
 クリスは目を伏せたまま長く息を吸う。そしてゆっくりと吐き出して、それと同時に眼差しを上げた。
 壁から身を起こして、まっすぐに、エアリアスの紫色の瞳を見返した。
 エアの目の高さが自分とほとんど変わらなくなっていることに、そうしてみてふと気づく。半年前は確かにクリスのほうが高かった。成長の止まっている自分とは違い、エアはまだ背が伸びるのだ。
 ……そんなふうに、とりとめのない想いに流れそうになる心をクリスは堰き止める。
 伝えなければいけない言葉が、あるのだ。
「貴方のそばにはいられません」
 エアリアスが目を見開いた。
「私がいれば、貴方はまたその身を危険にさらすかもしれません。宝珠の巫女の身体を。私では守護騎士の任が果たせません」
 目を逸らすなと、クリスは自分に強く命じた。
「言ったでしょう。貴方を護ることが出来ないのでは、私が貴方のそばにいる理由がない。辞任して、ほかの誰かに代わってもらいます」
 エアリアスはかぶりを振る。
「クリス……私は、貴方に護ってほしいわけじゃない。ただ貴方に、そばにいてほしいだけなんです。それでも、駄目ですか」
「……貴方は……」
 握りしめたクリスのこぶしが震えた。
「どこまで私の誇りを踏みにじれば気が済むのですか?」
 低く、早口に語られた言葉に。
 今度こそエアリアスが声をなくした。夜着の胸許を握りしめて、凍りついたように動かない巫女の脇を、クリスは足早にすりぬけた。
「明朝、発ちます」
 すれ違いざまにそう言い残す。返事はなかった。
 エアリアスの視線を痛いほど背中に感じながら、クリスは宝珠の間を後にした。振り返りはしなかった。はじめから、そう決めていた。


 自制心が保ったのは、私室の扉に内側から鍵をかけた瞬間までだった。
 膝が崩れて、クリスは床にへたり込んだ。扉に体重を預けなければ、頭を上げていることすら難しかった。
 左手が痛い。エアリアスの指の跡が、手首にまだ赤く残っていた。その手をのろのろと持ち上げて、クリスは唇を指でなぞった。
 そこに残るぬくもりが、どうしようもなく悲しかった。


 翌朝の食事の席で、クリスは報告のため騎士隊本部へ出向くことを告げた。急な出発に女官らは驚いた様子だったが、あるじである白珠の巫女が動ずることなく頷いたので納得したようだった。
 クリスもエアも、クリスの守護騎士辞任については触れなかった。今ここで口にして騒ぎにしなくとも、後任者が来れば自ずと知れることだ。
 出立の支度は食事前に済ませてあった。女官の見送りの申し出を断り、襲撃事件以来巫女殿の護衛に派遣されている同僚たちに留守を頼んで、その足でクリスは厩に向かう。厩番から愛馬の手綱を受け取って、門へ向かおうとするクリスを呼び止めた静かな声があった。
「守護殿」
 声はレナのものだった。有能な筆頭女官である彼女が、こんな時間に用もなく庭を歩いているはずもない。不審に思いながらクリスは手綱を放し、レナに歩み寄った。
「どうかした?」
「お逃げになるのですか」
 前置きもなくレナは言い放った。質問というよりは断定する物言いだった。
「……なにを言ってるの?」
「巫女様から。お逃げになるのかと訊いております」
「意味が判らないな。私は今日は隊に報告に行くんだけど? 交代で見張りをしてもらってるから、心配しなくてもここの護りは大丈夫だよ」
「貴方はそうして逃げておいでですが。それで巫女様をお幸せに出来ますか」
 厳しく語られた言葉に、クリスは目を瞠った。
「……知っているの?」
「はい」
「……そう」
 空を仰ぐ。木洩れ日が目に眩しい。
「出来ないから――私では出来ないから、去ることにした」
「…………」
「レナがそれを逃げていると責めるなら、それでもいい」
 クリスは苦く笑う。
「巫女様を――エアを、よろしく」
「…………守護殿」
 レナはゆっくりと頭を垂れた。
「行ってらっしゃいませ」
 違う、と言いかけて、クリスは口をつぐむ。応えぬままに、背を向けた。


「駄目だ」
 申し出を、フェデリア騎士隊長は一言で却下した。
「おまえの任務だ。巫女様から解任の要請があったわけでもない。辞任は、職務放棄だぞ」
「承知のうえです。処分は受けます」
 初老の隊長は白いものの混じった眉の下からクリスをねめつける。
「どういう意味か、判って言っているのだろうな?」
「はい」
 ためらわずにクリスは頷いた。職務放棄は隊紀違反の中でも最も重い。良くて長期謹慎と降格、悪くすれば隊からの除名もあり得た。
 騎士隊長は溜息をついた。
「……とりあえず謹慎を命ずる。正式処分を待ちたまえ」
「拝命しました」
 騎士隊流の敬礼をして踵を返そうとしたクリスを、隊長の声が追った。
「クリス。理由は言えるのか?」
 身体ごと振り向いて、クリスは微笑んだ。
 そのやわらかい笑みに、騎士隊長が虚をつかれたように動きを止めた。
「いいえ」
「……そうか」
 もう一度息をついて、行っていい、と隊長は促した。クリスは無言で頭を下げ、丁寧に厚い扉を閉ざした。


 ノックの音に、開いてます、と応える。顔を覗かせたのはエドマンドだった。
「いいかい?」
「……ええと」
 謹慎の身だ。迷うように視線を巡らせたクリスに、エドマンドは小さく笑ってみせる。
「隊長のご用」
「……聞いたんだ?」
「うん」
 笑みを消して頷くエドマンドに、クリスは身体を引いて室内を示した。
「どうぞ」
「お邪魔します」
 律儀に会釈して、エドマンドは扉をうしろ手に閉めた。寝台に書き物机、狭い収納スペースと、あとは背もたれのない椅子が二脚あるばかりの簡素な部屋だ。巫女殿で与えられていた豪華な部屋とは比ぶべくもないが、これでも若手のなかでは待遇のいいほうだった。
「用、って?」
「ええと……」
 エドマンドはかすかに顔を曇らせ、指でクリスが壁に掛けた、緋のマントを示した。
「――ああ。そうか」
 言われなくても、それで判る。クリスは手を伸ばしてそれを外し、クロゼットを開けて礼装用や予備のものもすべて出して畳んで重ね、エドマンドに差し出した。躊躇なくそうすることの出来た自分が、クリスは少し不思議だった。
 襟を立てた肩覆いと、金色の飾りボタンのついた、鮮やかな緋色のマント。このマントの着用を許されることが、フェデリアでは騎士隊員になるということと同義だ。馬上で緋の色をなびかせる騎士隊員の姿に、幼いクリスはどれだけ憧れをつのらせただろう。
 自ら手放す日が来るなど、喜びに手を震わせて受け取ったときには思いもしなかった。
 エドマンドは当惑を隠せない顔をして、受け取った緋色の布を、信じがたいものであるかのようにまじまじと見下ろす。その気持ちはクリスには良く理解できた。そんなに簡単に、返してしまえるものではないのだ。フェデリアの騎士なら。
「いやな役目させて、ごめん。エディ」
 クリスがそう言って笑いかけると、エドマンドははっと顔を上げた。
「……僕のことなんかはいいけど。辞める理由、訊いていいかな」
 真摯に問いかけたエドマンドに、クリスは静かに首を振ることで応える。
「うん……。あのさ。変なこと言うから、間違ってたら笑ってくれて構わないんだけど……」
 快活な彼にしては珍しく歯切れが悪い。クリスは反応に困って、背丈のあまり変わらない赤茶の髪の同僚を見つめた。
「君の辞める理由はさ……」
 一度質問を拒否した内容にエドマンドが触れてくることに、クリスは眉を上げた。本当に、らしくない。
 クリスの表情に気づいたのか、エドマンドも一度ためらうように言葉を切った。
 だが一瞬の空白のあと、迷いを振り切るようにきっぱりと問いかける。

「それは、白の宝珠の巫女様が本当は男のかただっていうのと、関係あるのかい」

 クリスがただ絶句した。

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