白珠の巫女

STAGE 7


「いってらっしゃいませ」
 昼食を詰めたバスケットをクリスに手渡してから、一歩下がってレナは深く頭をたれた。同じ言葉を唱和して、残りの女官たちも一斉に揃えたような動きの礼をする。
 やや間があった。おや、とクリスは視線を隣に向ける。いつもならすぐに巫女が言葉をかけて、皆の顔を上げさせるのだが。
 馬上から手を伸ばして、クリスはエアの肩にそっと触れた。物思いから醒めたようにぱっとエアが顔をこちらに向け、その拍子にケープのフードがずれて銀色の髪がこぼれおちた。
 フードを元に戻してやりながら、クリスは視線で促す。エアがああ、というように頷いて、いつもの落ち着いた言葉でいってきますと告げた。
「留守をよろしく」
 続けてクリスが快活に笑って言い、片手で乗馬の向きを変えた。巫女もそれに倣って馬首を巡らせ、手綱を弾ませる。あくまでも落ち着いた速度で、二頭とその騎乗者は並んでその場を後にした。白のケープの巫女と緋のマントのクリスの後ろ姿がゆっくりと遠くなってゆく。
「仲直りなさったみたいで。良かったこと」
「ほんとうに」
 笑いさざめきながら、あるじのいない束の間の解放感を楽しみに神殿へと戻ってゆく女官たち――そのなかにただひとり、皆と同じように笑いながらも、その瞳をおびえと恐怖に濁らせている女が、いた。


 のんびり、というのがふさわしい速度で、しばらく二人は馬を歩かせた。
「さっき、どうなさったんです?」
 神殿には声が届かない程度来たところで、クリスは訊きたくてしかたなかった問いを発した。
「どう、って」
 きょとんとエアが応じる。
「出掛けるとき。なにかに気を取られていたでしょう?」
「ああ。別に、なにも。ちょっとした考え事をしていて、反応が遅れただけです」
「……本当に?」
 あまりに打てば響く反応に、クリスは逆に不信をにじませるが。
「本当です。それともなにか、気にするようなことがありましたっけ」
 あっけからんと言われてしまうと、それ以上問い詰められない。クリスが気にしたのは、そのときのエアの反応以外に特にはなかったのだし。
「それなら、いいです。……どうしても心配性になってしまっているのかな」
 苦笑して、照れ隠しのように馬の足をクリスは速めた。そんな様子に、エアリアスがかすかにすまなそうな表情を見せ、それから自分も白馬の腹を蹴ってクリスに並んだ。 
「……そろそろ、いいんじゃないかな」
 神殿が完全に見えなくなるところまできて、エアリアスが呟くように言った。こくりとクリスは頷き、さりげなく、だが細心の注意を払ってあたりを見回す。
 神殿の広大な領地の中でも、このあたりは木立もなく平坦で、死角になるような場所はない。人影がないのを確認して、クリスは息をついた。だがそれは安堵の吐息ではない。
「大丈夫そうですね……」
 その言葉にエアが微笑む。そうして、すとんと白馬から降りた。クリスも自らの乗る鹿毛をその傍らに寄せ、手綱を握ったまま下乗する。よく目立つ緋色のマントが、二頭の馬の陰に消えた。
「頼みますから。じっとしていてくださいね。危険な行為はしないで。私は大丈夫ですから」
 自分でもしつこいと思いながら、作業の合間にクリスはもう一度確認せずにはいられない。
「ええ。信頼しています」
 手は止めぬままエアはにこりと笑って、何度目かも知れぬ台詞を口にした。ふうわりとした微笑みがクリスを落ち着かなくさせる。かすかに桜色に染まった頬を隠すようにクリスはうつむいてしまい、その拍子に目に入ったものに気づいてあ、と声をあげた。
「忘れてた」
 なんです? という声を無視して腰をしばらくごそごそと探る。そしてエアの片方の手首をつかんで引き寄せ、その掌にクリスは騎士隊の紋章の入ったレイピアを握らせた。
「これは持っておいてもらわなくては。使ってほしくはないんですけれど、ね」
「でもクリス、それじゃあ貴方が……」
「困りませんから。ほら」
 クリスはそう言うと鹿毛の荷からレイピアよりいくぶん短い、両刃の剣を取り出した。無骨だがそのぶん実戦向きに出来たそれを、手馴れた仕草で腰に固定する。それからひょいと眉を上げ、エアリアスの手からレイピアを取り返した。
「え?」
「いえ。やっぱり私がやったほうが早いかな、と」
 言うのと同時にクリスは屈み込んでエアリアスの腰に手を回し、戸惑う暇もなく騎士隊式の装備を終わらせた。飾り紐まできちんと結ぶと身体を起こし、点検するように上から下まで眺めまわす。 その面白がるような視線は最後にエアリアスの顔に行きついたところで、ふっと動きを止めた。
「どうか、しました?」
「……あ、――いえ」
 まさか見惚れていたとも言えない。クリスは視線を彼方に逸らすと、ことさらに明るい声で言った。
「そろそろ、行きましょうか」
「――ええ」
 頷いて、エアリアスはあぶみに足を掛けた。鞍に落ち着いたその姿を確認して、クリスも馬上の人となる。二人は再び馬を並べ、走り出した。


 丘のふもと、ささやかな木立ちの下へ、二頭の馬が到着したのはそれから半刻も経たぬうちだった。濃緋のマントの大きくはためくままに身軽く馬から下りた騎士が、なにか笑いながら巫女に手を貸してやわらかい草の上に導いた。いったん馬の許へ戻った騎士が取り出した敷物を木陰に広げると、巫女はバスケットから昼食をそのうえに並べる。
 ときおり華やかな笑い声すらあがった、楽しげな食事が終わると、騎士はなにごとか巫女に声をかけて立ち上がった。巫女が頷いて手を振る。騎士は降りたときと同様軽々と馬上の人となると、かけ声とともに力強く馬の腹を蹴った。鹿毛は声高にいなないて、もと来た原へ一直線に駆け出した。
 その姿がずいぶんと遠くなったところで巫女は手を下ろし、傍らに置かれた分厚い本を取り上げた。邪魔そうに首を振って深く被っていたフードを落とすと、きらきらと木漏れ日をはじく髪がさらりと流れる。巫女は頭と背中を木の幹に預けると、もういちど馬と人の走っていった先を眩しげに眺めやってから、視線を本に落とした。

 ふと、巫女の肩がぴくり、と揺れた。
 ほとんど同時にひゅん! と音がして、幹の頭半分だけ上の位置に一本の矢が突き立つ。
 それが引き金になったように、次々と矢が狙う。だが最初の一本が届いたときにはすでに腰を浮かしていた巫女は、素早く方向を見定めると木の幹のうしろにまわりこんで第二陣を避けた。
 ほどなく矢の雨がやみ、その代わりに複数の足音が近づいてくるのが耳に届いた。
「……見事に予想通り」
 微苦笑を漏らしつつ、巫女は左腰の剣の柄に手を添えた。
 おそらく敵は守護騎士が巫女のもとを離れたところを狙い、弓矢で簡単に仕留めるつもりだったのだろう。神殿で大事に護られて暮らすなよやかな巫女よと、たかをくくっていたのかもしれない。だが、その思惑は外れた。
「だから直接やっちまえってのは、ま、正解じゃああるだろうけどね」
 呟いて、胸許のリボンを解きケープを脱ぎ捨てる。草地を蹴る足音に耳を澄ましてぎりぎりまで引きつけ、不意を討つタイミングでクリスはその白いケープを先頭の男に叩きつけた。そしてすかさず剣の鞘を払い、刺客の二人目に切りつける。結んでいない亜麻色の髪が肩で躍った。
「残念でした、やられてあげるほどこっちは甘くないんだ」
 軽口を叩きながら最後に向かってきた男から身をかわし、振り返りざま剣の柄を一人目の鳩尾にめり込ませる。全員が怯んだところでばっさりと斬られたケープを拾い上げ、身を翻した。
「貴様……巫女じゃないのか!?」
「そう思いたいのなら、どうぞ」
 その身のこなしに思わず愕然と尋ねる男に不敵な一瞥をくれて、クリスは白馬に駆け寄る。だが木に括った綱をほどいたところで、気を取り直した刺客たちが追いついてきた。クリスは舌打ちして白馬の尻を叩いてやると、自分は男に向き直って剣を構えた。
 一対三の戦いに、クリスは危なげなく応じていた。エアリアスと取り換えた白のケープを盾代りにひらめかせつつ、片手で持った小ぶりの剣で屈強な男たちの打撃を受け流し、逆に打ち込む。かつて兄の剣術の教師をして天才と言わしめた、滑らかで隙のない動きだった。
 男たちのほうが、逆に冷静さを失っていた。悪態をつきながら、闇雲に剣を振り下ろす。クリスがそれをひょいひょいとかわしてみせることで、彼らの激昂はさらに煽られる。――そうして剣を交えてしばし。刺客たちの興奮した耳には聞こえていないであろう音を、クリスの耳は確かに捉えた。
 クリスはケープの残骸を再び目の前の男に投げつけ、すぐに踵を返して走り出した。少し離れた場所で足を踏みならしていた白馬の手綱を取り、勢いのままに鞍に飛び乗る。追いすがろうとした男が、あっと叫んで立ちすくんだ。
 その証である緋色のマントに身を包んだフェデリアの騎士が数騎、丘へ向かって駆けてきていた。すでに表情の見える近さだ。
「ユーリグ! エディ!」
 クリスが剣を振って合図する。先頭の、大柄な青年が怒鳴り返した。
「クリス!! 無事かっ!」
「大丈夫、それよりユーリグあいつら」
三言目を交わすころには彼らの乗馬はほぼ並ぶほどに近づいていた。援軍を目にして逃げ出した刺客を指してクリスは馬首を返そうとする。
「判ってる、逃がすか。おまえは休んどけ」
「でも」
「こっちは僕らに任して! 巫女様についていてさしあげなよ、君の役目だろっ」
 ユーリグに続いてエドマンドが、クリスの傍らをすり抜けざま振り向いて笑った。その言葉に思わず手綱を引いてしまったクリスを、耳慣れた声が呼んだ。

「クリス!!」

 銀色の髪が目に入った。ついで、こちらに伸ばされた細い腕が。
 どん、と肩を突き飛ばされてクリスはバランスを失いかける。

「……え?」

 ひゅん!
 その音を、とても近くでクリスは聴いた。

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