白珠の巫女

親愛なる友へ

chapter.1 妖精

「兄さまっ!」
  そのとき、妖精が現れた――と、エドマンドは思った。
 きらきらと光る金色の髪、深い森の中の湖のような、青とも緑ともつかない不思議な色の、零れ落ちそうに大きな瞳、ばら色の頬に白い肌。いつか見た妖精の絵にそっくりだ。
 ――けれども、妖精なら背中に羽があるのではないだろうか? 階段を駆け下りる足取りはいかにも軽やかだったけれども、羽を使って飛んできたわけではない。
 あれ、と首を傾げて、エドマンドは「妖精」を見直した。やっぱり羽はないし、よく見れば着ているものもエドマンドと同じようなズボンとブラウスとベストで、すこしも妖精らしくはない。
「兄さま、ずるい。このあいだ、今度は連れて行ってくださるといいました」
 どうやら妖精ではないらしいその子は、先刻エドマンドが紹介されたばかりのこの家の長男に向かって、なにやら文句を言っていた。子供らしい高い声も、人ではないもののようには聞こえない。兄さま、と言っているということは、弟だろうか。そう思って見てみれば、顔立ちや髪の色が、この家の長男――ヴィクターと名乗った――と似ているようにも思えた。
 背丈はヴィクターの胸くらいで、たぶん自分と同じくらいだ。だったら、歳も同じくらいだろう。
(一緒に遊べるかな)
 そう考えるとわくわくしてきた。ヴィクターは14歳で、エドマンドをここに連れて来た長兄と同い年、今年9歳になるエドマンドよりは5つ年上だ。エドマンドのいつもの遊び相手はふたつ離れた次兄のジェイムズだったが、先日からかれは風邪を引いて寝込んでいて、それでこうして長兄が友人宅を訪ねるのにくっついてきているわけだが、同じ年頃の子供と遊べるならそのほうがいい。エドマンドも乗馬は苦手ではないが、なにしろピーターはたいへんな乗り手で、そのピーターの話を聞く限りヴィクターはさらに上手うわてらしいのだ。一緒に乗馬に行っても、あっという間に置いていかれるに決まっている。
「クリス、わがままを言うな。今日はおれは、ピーターと遠乗りの約束をしてるんだぞ」
 だがエドマンドの期待とは裏腹に、ヴィクターは苦りきった顔で弟を諭していた。
 ヴィクターの弟はぷんとふくれて、それでも諦めない。頬をいっそう赤くして、なじるように兄を見上げる。
「約束ならクリスのほうが先です。クリスも遠乗りに連れて行って」
「だからなあ……」
 まあまあ、と口を挟んだのはピーターだった。
「僕も今日は弟連れてきちゃってるし、きみはさっき構わないって言ってくれたろ。きみの弟君も一緒でちょうどおあいこだ。……ハームの原まで行く話は、また次の機会にしないか、ヴィク」
「ピート、」
「本当っ!? 本当にクリスも連れて行ってくれますか!?」
 ヴィクターが何か言いかけるよりも先に、話題の本人が勢い込んでピーターに駆け寄って訊ねる。膝をかがめて視線の高さを合わせ、ピーターはにっこりと笑った。
「ほんとうだよ」
「やった! ありがとうございます!」
 踊りださんばかりの子供の金色の頭を、ピーターは撫でる。そのまま目線だけをヴィクターに投げて、いたずらっぽく笑った。
「ごめん、約束しちゃった」
「……わるいなピート、気を遣わせて」
「だから、おあいこだって」
「いや……その、な」
 あいまいに言葉を濁し、ヴィクターは期待を顔いっぱいに浮かべて振り返った弟に、仕方がないと言いたげな顔を向ける。
「わかった、クリス。連れて行ってやるから、ちょっとこっちに来い。おまえ、まだご挨拶もしてないだろう」
「あっ。ごめんなさい」
 ぱっと顔を、興奮とは別の色で赤くして兄とピーターを見比べると、子供は慌てたように兄のもとに駆け戻った。その華奢な肩に手を添えてピーターとエドマンドのほうを向かせ、ヴィクターはなぜかひとつため息をついたあと、真面目な顔で口を開いた。
「あー……あらためて紹介するよ。クリスだ――クリスタル=リーベル=スタイン。そろそろ8歳になる。おれの、末の妹だ」

 ――いもうと?

「クリス、あちらはピーター=フランシス=カートネルとエドマンド=ウィリアム=カートネル。父様の御友人のカートネル小父様の、一番上と三番目の息子さんだ」
「はじめまして、クリスタルです。クリスとお呼びください。よろしくお願いします」
 紹介に続いてぺこりと頭を下げたヴィクターの弟――いや、「妹」の挨拶はすらすらとよどみのない、見事なものだったが、エドマンドの兄はそれに応えるどころではないようだった。エドマンドとて混乱の度合いは同様だ。
(いもうと、って……女の子?)
 女の子、というのは、ひらひらした華やかなドレスを着て髪にリボンを飾って、ピアノを弾いたり人形で遊んだりお菓子が大好きだったり、そういう生き物ではなかっただろうか。エドマンドの二人の姉も末の妹も、いとこのスザンナやハリエットも、みんなそうだ。乗馬は貴族のたしなみのひとつだから、女の子だって習うし、スザンナは自分の白い馬をジェイムズより上手に乗りこなすけれど、それだって乗馬用のドレスを着て、帽子をかぶって、鞍に乗るときには男性の手を借りる。クリスタルと紹介されたヴィクターの「妹」のように、男の服を着て客の前に走り出てくる少女というのを、エドマンドはこれまでに見たことがなかった。
「……おっどろいたな。女の子かい」
 ピーターがようやく口を開いた。照れ隠しのように髪をかきあげながら苦笑する。ヴィクターが肩をすくめた。
「こんなでも一応な。……おれとアレクで面白がって、いろいろ教えたからなあ。父上も母上もなんだかんだ言ってクリスには甘いし。で、どうする」
「どうする……って」
「クリスは弟じゃなくて妹だが、それでも今日の遠乗りに連れて行くか?」
「あー……うん。約束したしね。――いいよなエディ?」
 兄はエドマンドの存在をしばらくぶりに思い出したように振り返って確認する。
 エドマンドはそれにこくりと頷いた。
「そうか」
 どこかほっとしたように、ヴィクターが笑う。クリスタルも不安そうだった顔に笑顔を浮かべた。
 エドマンドはその、妖精の絵そっくりの整った顔をじっと見つめる。
(この子と一緒に、遠乗り)
 それはとても不思議なことに思えたけれど――
 同時にとても胸がどきどきすることだった。


 年上の少年二人が争うように先頭を切る。エドマンドとクリスタルには、ゆっくりついてくるようにとのお達しがあった。目的地は丘のふもと。そこまでの道のりは見通しのいい原で、先行する二人を見失うおそれはない。
「ゆっくりだって。どうする?」
 背筋を伸ばして鞍上に落ち着いたクリスタルに、エドマンドは話しかけた。直接彼女に声をかけるのはこれが初めてだ。何気なくと心がけたつもりが、声がわずかに上ずったのが悔しい。
 けれど少女はそれを気にしてはいないようだった。それよりも別のことに気をとられたように、大きな目をさらに大きく見開いている。
「……どうしたの?」
 重ねて問うと、さらに驚いた顔でじっと見つめ返す。……どうやら自分の行為が驚きを誘ったらしいと思い当たった。でもそれがなんなのかがわからない。
「クリス?」
「……あのね。はじめてなんだ」
「え?」
「クリスが女だって知って、それでも話しかけてくれた男の子、エドマンドが初めてだよ。いつもみんな、兄さまたちとだけ話すの。クリスのことも、クリスに言わないで兄さまにばっかり」
「……そっか」
「うん。だから嬉しい。ありがとう」
「ええと……どういたしまして」
 返事に困って、そんな風に答えると、クリスタルはにこにこと笑った。
(そんなに嬉しいことなんだ)
 普通の会話。ただ声をかけただけ。
 そんなこと、自分ならいつだってしてやれるのに。……それは確かに、ひとこと目はすこしばかり勇気を伴ったけれど。
 それなら自分だけでも、普通に話そう。普通の友人のように、笑ったり怒ったりしよう。少女の笑顔を見つめながら、エドマンドは心の中でそう決めた。
 そのとき、クリスタルが前方に目をやって、あっ、と声を上げた。
「兄上たち、もうあんなに先に行ってる!」
「ほんとうだ。……追いかける?」
「もちろん! 行こう、エドマンド」
 クリスタルが叫ぶのと同時に、彼女の馬がなめらかに駆け出した。エドマンドは慌てて自身の乗馬を促して追いかける。程なくして二頭の馬が首を並べた。横目でこちらを見やったクリスタルは、むっ、というように顔をしかめると、いっそう馬を駆り立てた。
 クリスタルの乗馬技術は見事なものだった。ヴィクターが渋りながらも同行を許したのも頷ける。どうみても女子供向けではない、元気の良い若駒を、10歳にならない少女はまるで身体の一部のように楽々と操っていた。
「クリスタル」
 蹄の音に負けないように声を大きくして呼び、視線を向けた少女に、エドマンドは笑いかける。
「エドマンド、じゃなくて、エディって呼んでよ。友達はみんなそう呼んでる」
 クリスタルはぱちりと瞬きをした。
「――ともだち?」
「に、なりたいんだけど。……だめかな?」
 前が見えなくならないかとエドマンドが心配になるほど力を込めて、ぶんぶんとクリスタルは首を振る。それから一生懸命に叫んだ。
「だめじゃない!」
「じゃあ、僕もクリスって呼んでいい?」
「うん! ありがとうエディ!」
 頬を紅潮させた少女の笑顔に、エドマンドは思わず見蕩れた。
 風に髪を乱されたその顔は、もう妖精には見えなかったけれど、リボンやレースで飾られてもいなかったけれど、――とても可愛いもののように、そのときエドマンドの目には映ったのだった。
花迷路HOME