女神の恋 ---ぎりしあ奇譚外伝


「月の女神アルテミスが、恋をしている」

 ――それが、このところ天界人界を非常に騒がせている噂だった。
 月光を紡いだ風情の波打つ銀髪に、表情ゆたかな翠の瞳が印象的な月の女神は、けれどもその愛らしい容貌とは裏腹の潔癖な性格で知られる。異母姉にあたるアテナにならって処女の誓いをたて、男嫌いを公言して、実父ゼウスと双子の片割れである太陽神アポロンを除く男性は徹底的に傍に寄せ付けない。膝の見える男のようななりで野山を駆け回り狩に興じるさまは、少女というよりは少年めいているというのが、周囲の一般な認識だった。

 そのアルテミスが、近頃、狩の供としてひとりの男を連れ歩いている――というのである。

*

「……誰だって?」
 問い返した青年に、噂を伝えた当人は鈴を振るような笑い声で応じた。
 笑われた青年はわずかに不機嫌そうに細めた目を、酒の入った杯を呷ることで相手の視界からさりげなく隠す。
「そんなに笑われることを、俺がなにかしたかい、アフロディテ」
「まーあ」
 あいかわらずくすくすと笑いながら、美と愛の女神は空いた杯にすかさず新たな葡萄酒を満たした。
「自覚もしてないのね? ああおかしい。貴男妹のことになると表情が変わってよ、アポロン」
「面白がってるだけなんだけどな。あのアルテミスに男が出来たと言われて、俺が驚かないほうが変じゃないか?」
「それは勿論、みんな驚いていてよ。でも貴男のさっきの顔、それだけには見えなかったわ。可愛い可愛い妹に恋人が出来てやきもちを焼いているのじゃなくて?」
 からかうような口調でアフロディテは言うと、自分の葡萄酒をなめながら、睫毛ごしにちろりと青年を見やる。美と愛の女神の傍らにあってなんら見劣りのしない美しい男がいるとすれば、このアポロンを措いているまい。輝く豪奢な金髪、エーゲの海のような蒼の瞳。無骨さとは縁がなく、さりとてことさらに女性めいたところもない端正な顔かたちに、均整の取れたしなやかな体つき。容貌でも能力でもひときわ秀でたこの美貌の青年神が、人界で父ゼウスをしのぐとも言われる人気を誇るのも当然の話といえた。
「――貴女こそやきもちかなアフロディテ」
 アフロディテのあてこすりに一瞬眉をひそめたアポロンは、けれども次の瞬間にはからかうような笑みを浮かべている。
「あら」
 女神は大仰に瞬きをしてみせた。
「あたくしが? やきもち? どうしてかしら」
「だれよりも美しい貴女の前で、ほかの女の話に興味を示したから」
「ま。ふふふ。あいかわらずお上手ねアポロン」
「世辞など言ってはいないさ」
 気を良くした様子で笑うアフロディテの手から酒杯をとりあげて卓上に置くと、アポロンは身を乗り出して紅く濡れた女神の唇にくちづける。
 思うさま味わったあと、アフロディテの耳元に顔を寄せて太陽神は低く囁いた。
「……あのおてんばの話はあとにして、いまは俺たちの姉弟愛を深めないか?」
 恋多き愛と美の女神は、男の首に腕を絡めることでそれに応えた。


(ばかなおとこ……)
 アフロディテは背中を辿る指の持ち主のことをぼんやりと考える。
 彼はいつも、まるで母親に身をすりよせる幼子のような気安さでアフロディテをもとめた。義理のきょうだいというほどほどの近しさと、恋多きという枕詞で語られる在りようと。たぶんそんなところに起因している。ときに甘い台詞をかわし、ときにそっけなくはねつけ、またときにはまるで剣試合のように斬りつけあい、けれどもそこにある言葉のどれひとつとして本気で言われるものはない。
 恋ではなく、恋という名前の芝居をしている。もうずいぶんと長いこと。
 ――けれどもこの美しい男は知らないのだ。
 彼女は愛の女神。いくつ恋をしても、どれだけ男を愛しても、いつだって女神にとってそれは心を捧げた真実の愛。
(ばかなおとこ。でも、知らなくていいわ)
 間近に見つめてくる紺碧の瞳には確かに自分の姿が映っていて、けれど彼が見ているのは自分でないことをアフロディテは知っている。寝台のうえでこうして抱き合いながら、心を寄せてこない男がにくらしい。そんな男をそれでも愛してしまう自分が悔しかった。
 いまここで、胸のうちをすべてぶちまけてやったら、この男はいったいどんな顔をするだろう。想像してアフロディテはこっそり笑う。きっととても途方に暮れるに違いない。見てみたい気がする。そんな誘惑にかられるのも、珍しくはなくなった。
 想像だけで満足して、恋の芝居の相手役を律儀につとめてやるのも、いつものこと。
 なにもかもに恵まれて、欠点のないように見えるくせに、本気の恋ひとつうまく出来ない不器用さをこそ愛したのだ。
 名を呼んでやると微笑みがかえってきた。その目があいかわらずアフロディテの向こうに誰かを探していても、名を呼び返されて唇を重ねているのは、いまは自分だけだ。
(それで満足してあげてよ、おばかさん)
 胸のうちでそう呟き、男の耳朶に傷が出来るほど噛みついて、女神はささやかな意趣返しを果たした。


 オリオンというのよ、と、背を向けて身支度を整える青年神にアフロディテは教えてやった。
 肩越しに振り向いたアポロンの、いかにも興味のなさそうに取り繕った表情に、吹き出しそうになるのを我慢する。
「ポセイドンが巨人族の女に産ませた子のそのまた息子とか、そんなあたりだそうよ。弓自慢で狙った的を外したことがないそうだから、アルテミスとそのあたりで意気投合したのかもしれないわね」
「……へえ」
「ついでにいうと、なかなかの美形ですって。金色の髪と青い瞳が素敵なの。……あら、もう帰って?」
「俺は間男だからね。早めに退散することにするさ」
「ずいぶん態度の大きい間男もいたものだこと。せいぜい噂にならないように気をつけて頂戴な」
「そうするよ。じゃあ」
 あっさりと笑って太陽神は踵をかえす。遠ざかる背中はけして振り返ることがないから、アフロディテはいつも安心してそれが見えなくなるまで眺めていた。
「……似ていてよ」
 ぽつりとひとりごちる。
「わかってる? 貴男に似ていてよ」
 そのことに気づいていて欲しいのか、気づかないでいて欲しいのか、それは女神自身にもわからなかった。

*


 アルテミスの恋人の死を噂が伝えてきたのは、その夜から半月ほど経った頃のこと。
 神の一族につらなるオリオンに、死をあたえたのは月の女神の放った矢だった。
 恋人を自ら射殺した理由を、アルテミスは誰にも語ろうとはせず、ただひとすじ涙を流したという。


 愛の女神はひとり想像する。
 銀の船がするどく研いだ鎌のような月を乗せて天の海を渡っていた、暗い夜のことを。

 鹿がいる、と男がゆびさす。
 鹿がいる、と女がうなずく。

 引き絞られる弓はその夜の月にとてもよく似ている。


「ばかなおとこ」
 念入りに紅をひいた唇を、アフロディテは笑みの形にゆがませる。
 部屋中を薔薇で飾った。しっとりと手触りのいい夜着をえらんだ。薔薇水で髪を洗ってもみた。必要なのはあとは口実だけだ。約束を破った愛人への愚痴でも聞かせてみようか。それとも年上の夫を振り回す気まぐれな妻を演じてやろうか。

 ――きっともうじき、暗い目をした美しい青年が、この部屋の扉を開けるのだろうから。


<了>

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