ぎりしあ奇譚

ΠΡΟΛΟΓΟΣ


 すべては、混沌より生まれた。
 天と地とがまず分かれ、闇と光が生じ、太陽と月が巡りはじめた。
 大地は多くの神の母となり、神々はまたそれぞれの子をなし――そして大戦が始まった。
 クロノスの末の息子ゼウスは父を倒し、助け出した兄姉とともに世界を制した。
 こうして、オリンポスの神々の時代は始まるのである――。



第一章


 深緑の森のはずれの、小さな湖のほとりから、明るい笑い声が響いた。飾り気のない軽装の少女たちが、色とりどりの花を手に他愛もないおしゃべりに興じている。
 輪の中心に座る、ひときわ輝かしい美貌を有する銀髪の乙女は、小柄な彼女にはいささか大きすぎるほどのサイズの、髪と同色の弓を傍らにおいていた。腰には水晶の短剣。周りの少女たちもみな一様に弓矢や剣を身に帯びた、狩装束である。
 銀髪の少女の名を、アルテミスという。大神ゼウスの娘にしてオリンポス十二神のひとり、月の運行をつかさどる女神である。アルテミスはまた永遠の純潔を誓った処女神であり、周囲の少女たちはその彼女を慕い集まってきた、アルテミス神殿の巫女たちであった。今日は狩を好む女神のお供をしての外出で、今はその小休止といったところだ。
 ――ふと、アルテミスが口をつぐんだ。隙のない目で周囲を探る。気性の強いこの少女神は、くつろいでいるときを邪魔されるのをひどく嫌がるのだ。
「誰かおりますの、アルテミス様?」
 女神の表情に気づき、巫女の一人がそう問いかけた。輪の中ではもっとも年かさで、女神の側近とも言える存在である。エルザというその巫女に軽く頷き、なお視線を配るアルテミスは、しかし次の一瞬破顔した。
「アポロン兄様(にいさま)!」
 女神の視線の先の木の梢が、その声とほぼ同時にがさりと揺れた。木の葉を撒き散らして、長身の影がひとつ、地面に降り立つ。
「よく気づいたな、驚かしてやろうと思ったのに」
 くすくすと笑うにつれ、首で束ねた長いブロンドの髪が小刻みに揺れて煌めく。妹同様、髪の色と揃いの――彼の場合アルテミスと見事に対照的な黄金の――弓矢を肩にかけ、やはり狩装束をまとったこの青年は、無論人間ではない。
 太陽神、<光り輝く(フォエボス)>アポロン。アルテミスの双子の兄であり、ともに十二神の一員を名乗る。人間で言えば十八歳ほどの姿をしたアポロンは、妹よりいくばくか年上に見えるが、実際は双方とも気の遠くなるような年月を生きていた。その気性のままに肉体の時を停めるのが、神である。
「見くびらないで頂戴。あたし狩の女神とも呼ばれるのよ? 気配くらい、ちゃあんとわかるわ」
「それは悪かった。けど相変わらず警戒心強いな、俺じゃなかったらいったいどうしてたんだ?」
「兄様以外の男だったら、とおっぜん問答無用で追い払ってるわよ。あたりまえじゃないの」
「おまえねぇ……」
 思わずアポロンは額を押さえる。やたらと潔癖なこの妹は、彼と父親であるゼウスを除く男性全般を徹底的に嫌っているのだ。異母姉(あね)である純潔の智神アテナを敬愛するゆえ、らしいのだが、異性全般をこよなく愛するアポロンとしては理解できない心理である。
「なによお」
 アルテミスは口を尖らせた。
「いや、その潔癖症はなんとかならないかと思ってさ」
「兄様みたいな遊び人とは違いますよおーっだ。あたしは父様(とうさま)と兄様がいれば男なんていらないもの。兄さまこそその女癖なんとかしたらぁ?」
「……あーのーなー。今は俺の話ではないでしょう」
 ふたたびアポロンはため息をつく羽目に陥ってしまった。実は女性関係の話題ではあんまり反論ができない。あの父にしてこの息子在りというか……そもそも彼ら兄妹にしてからが父ゼウスの浮気の産物だったりするのだから、アポロンとしては遺伝しちまったのものはしょーがなかろーが、の心境である。
 ……しかしそれを言ったら目の前の妹や異母姉アテナも同じ血を引いているわけなのだが。
「俺はな、全女性の幸せを願ってるだけなの。恋は女を美しくする、ってね」
「あたしには不幸のどん底に次々放り込んでいるとしか見えないわ?」
「ほーお? そっちこそ『男嫌い』じゃなくて男運ないだけなんじゃないか、実は」
「長続きしたためしのない人の台詞じゃないわね、それ」
 はたから見ればじゃれあいにしか見えないやり取りに、供の巫女たちががまんできずにくすくすと笑い声を上げた。アルテミスもアポロンも、彼女から見れば手の届きようのない存在であるのは確かだ。しかし二人が出会うたびに始めるこうした会話は、ひどくかれらを身近なものに見せてくれる。誰にでも愛想がよく天界でも人界でも人気者のアポロンはともかく、好き嫌いが激しく余り他人に懐かない――要するに、子供のままなのだ――アルテミスが、こうまで無防備に語らう相手など、異性ではこの兄のほかにはまずいない。それほどにこの二人は、仲の良い兄妹だった。
 そのことをアルテミス神殿の乙女たちは大半が好ましく思っている。だが男を拒むがゆえに実家を出奔し女神のもとに仕えている巫女もまた一人二人ではなく、ゆえに実の兄とはいえ敬愛する女神に一番近しい異性であるアポロンを疎ましく思うものもまた少なくはなかった。
「アルテミス様、そろそろ帰りませんと。日が暮れてしまいますわ」
 会話の切れ目にすかさず割り込んだ、名をヘリアという巫女も、そのような一人だった。女神には見えない角度で、アポロンをきつく睨みつける。おやおやとアポロンは肩をすくめた。慣れている。
「そういえば明日は6の月の朔日。月例会議の日でしたわね。お支度もございますし、お早めに帰られたほうがよろしいかもしれませんわ」
 脇からエルザもそう口添えする。忘れてた、とアルテミスはあからさまにうんざりした顔をした。
「面倒なのよねぇ……」
 毎月、月初めに行われる十二神会議のことである。会議、といっても十二神全員が親戚同士の間柄なので、実のところ家族パーティと相違ない。
「おまえみたいに楽しんでないのは少数派だろ。いいじゃないか、父上も退屈なんだ」
「退屈が聞いて呆れるわ。ついこのあいだもどこかの姫君だかに手、出して、義母上(ははうえ)にひどくやられたばかりじゃないの。ほんとそっくりよね、父様と兄様って」
「俺はまだ結婚してないぞ。だから不倫はしようがないだろうが。……って、おい、何でまたこんな話題に戻ってるんだ?」
「……不毛ね。あたし帰るわ。また明日ね、兄様」
「ああ、明日はちゃんとめかしこんでこいよ、馬子にも衣装とかいうし」
「ふーんだ!」
 翠玉の瞳できっと睨んで、アルテミスは踵を返した。供の巫女たちが後を追う。
 ひとり残されたアポロンは、楽しげにくっくっとのどを鳴らした。


 常にはゼウスの居城として使われる、運上の白亜の神殿の大広間は、一月ぶりの明るい喧騒に包まれていた。
 それはおそらく、壮観、というべき光景であろう。幾多の神々のなかでも強大な力を誇る十二神が一堂に会する様など、並の人間には想像すら不可能であるに違いない。
 中でも目を惹くのはアフロディテ、アテナ、アルテミス――いずれもゼウスの娘である三人の若き女神であった。美の神と呼ばれるのはアフロディテ一人だが、三者の美しさはそれぞれ趣を違える。肌もあらわな衣装をまとい豊かなブロンドを波打たせた、妖艶な色香の漂う美と愛の女神アフロディテ。滑らかな黒髪を優美に結い上げ、凛とした気品を放つ智神アテナ。そして、月光に喩えられる白銀の髪を緩やかに編み、妖精のような可憐さを見せる月神アルテミス――。ゼウスやポセイドンら年かさの神々が、思わず感嘆の息を漏らすのも道理であったろう。
「いや、良い眺めだな、これは。さすがわが娘たちだ」
 満足そうに漆黒の髭をしごきつつ、玉座に掛けたゼウスは笑みを浮かべた。通常であれば隣にいるはずの正妃ヘラは冥界の王ハデスと話があるとかで席をはずしており、これもまたこの女好きの天神の心の平安の一要因であるのは確かであろう。
「父上、いくらなんでも娘に手を出すのはやめてくださいね」
 酒の入った杯をふたつ手にして、アポロンが背後から声を掛けた。苦笑してゼウスは息子の手から酒を取る。
「さすがにわしもそこまで愚かではないぞ。大体、アフロディテ以外の二人に手を出せるものなどおらなんだろう。――もったいないことだな。あれらに惚れているものも多かろうが……」
「触れた者皆たちまち凍らせる氷の刃。そんなところですかね、特にアテナのほうは」
「そうだな。……アルテミスは、まだ子供なのだよ。あれのたてた誓いはわしが"神の盟約"にはせなんだ。もう少し大人になってから、改めて決めさせようと思ったのだが……よもやあの姿で成長を停めてしまうとはな。よほど成熟するのが嫌なのか――」
 天空の城の主は、話題の主の姿に向け目を細めた。数え切れぬ子のあるゼウスだが、奔放で快活なこの美しい末娘を彼は殊更に可愛がっている。
「双子だというのに、まるで似ておらんな、おまえたちは」
「正反対の役割を与えたのは父上ですよ」
 薄い紅色の酒を一口含み、抗議するようにアポロンは答えた。その様子にゼウスがおや、という顔をする。
「それはそうだが、な」
 神の王は玉座の脇に立つ息子をつくづくと眺めた。ゆったりとした最上級の絹の衣装を着けた、腰に届く黄金の髪を持つこの碧眼の太陽神は、『最も美しき神』との人間の賛辞も足りぬほどの容姿を有する。しかし彼の性質を最も顕著にあらわすものはその美貌ではなく、唇の端に絶えず浮かべたかすかに皮肉な微笑であるだろう。すべてに恵まれながら、世界に飽いたような――
「おまえは嫁を取るつもりはないのか?」
 ゼウスの唐突な問いに、その美貌が瞬時、崩れた。
「なんですか、いきなり!?」
 酒にむせて咳き込むアポロンに、ゼウスは人の悪い笑みを向ける。終始ペースを崩さないこの息子の意表をつくのは、彼のひそかな楽しみでもあるのだった。
「お前はわしによく似ておるからな。さっさと恋人を見つけて結婚するだろうと踏んでいたんだぞ。それが、いくら待とうが一向にその気配もない。いい加減に身を固めてわしらを安心させて欲しいものだ」
「なーにを、人間みたいな台詞を吐いてるんだか、この人は……」
 しなやかな右手で髪をかきあげて、アポロンはしばし呼吸を整えた。
「あいにく俺は父上に似た上に、父上より先見の明という奴はあるんですよ。俺が一人の女に縛られるの駄目ってぐらい、わかってるでしょ?」
「ふむ。しかし浮気もなかなかよいぞ。スリルがあってな」
「……お父様っ!」
 至近距離に響いた、怒気を含む声にふたりは顔を上げた。最前までの噂の渦中人物――若き月神アルテミスが剥き出しの腕を組み合わせ仁王立ちしている。頬がかすかに紅潮しているのは……怒りのためであろうか。
「なんてこと吹き込んでんのよ、兄様にっ!」
「いや、そもそもわしはただアポロンに結婚する気はないのか訊いただけだぞ」
 少々逃げ腰気味にゼウスが答えた。アポロンはといえば、視線をあらぬ方向へとそらせつつ、杯を片手にその場を立ち去ろうとしていたが……妹神のひと睨みに、仕方無しにその場に留まる。潔癖な処女神に聞かれるには、いささか間の悪いタイミングであったようだ。
「兄様、結婚する気、あるの?」
「だから俺には無理だって、いま父上にも断ったばかりでね」
「うん、あたしもそう思うわ」
 にっこりとアルテミスは微笑んだ。天使のごとき、とはまさに彼女のための形容であろうと思わせる笑みである。――ただしその形の良い唇から耳に痛い台詞が飛び出してこなければの話だがと、アポロンは内心で考えた。
「今日はまた一段と美しいな、アルテミス」
 如才なくゼウスが話題を移した。褒められたほうのアルテミスは、居心地悪そうに肩をすくめる。
「ありがと、父様。でも嫌いよこの格好、長すぎてうっとうしいもの。歩きづらいし、髪編むのは面倒だし、狩してるほうがよっぽど気楽でいいわ」
「おまえらしいな」
 ゼウスはそう言って笑った。
「あーら、お揃いねぇ?」
 そこに入ってきたのは、唇に濃く差した紅もあでやかな美の女神――アフロディテである。もうだいぶ酒が入っているのか、頬が赤く染まり足元も覚束ない。その後ろでこちらは酒の一滴も飲んでいませんといった顔で智神アテナが、ゼウスに向け軽く会釈をした。ともにアポロン・アルテミスには異母姉に当たるこの二名は、同年輩だからか正反対の性格ゆえか、あまり仲が良いとは言いがたかった。
「まぁアポロン、お久しぶり。あとでわたくしと踊ってくださるかしら?」
 アポロンの肩に右手を預け、耳元に唇を寄せて美神は囁いた。愛の神でもあるこの女神は、自身もまた恋多き女性として知られている。馴れ馴れしい仕草に、兄の隣でアルテミスがあからさまにむっとした表情になった。が、こちらには父親に挨拶を終えたアテナが親しげに声をかける。
「元気そうだね、たまにはパルテノンにも顔を出して欲しいな」
「ごめんなさい、アテナねえさま」
 外見とは裏腹な男勝りのアテナにこつんと額を叩かれ、素直にアルテミスは頷いた。
「おーお、この素直さの十分の一でも俺と話すときにまわってこないものかな」
 巧みにアフロディテの腕をはずしたアポロンが茶々を入れる。
「おまえにそれを言う資格はないよ、アポロン」
「なんだいそれ。俺のなにが悪いって、アテナ義姉上(あねうえ)?」
「わからないなら末期症状だな。自分の胸に手を当てて考えるといい」
「ま。あなたの性格こそ改めたほうが良いのじゃなくって? せっかく素材は悪くないのだから、少しは女らしくなさいな」
「ご忠告はありがたいが、私はそなたのように堕落する気はないよ」
「あーらあらあら。喧嘩売ってるのかしら? あたくしに?」
 くすくすと酒臭く笑いながらアフロディテが、上目遣いに背の高いアテナをねめつけると、
「どう考えても自分が勝つ相手に売るほど、残酷ではないよ私は」
 ついと顎を上げてアテナは横目でその顔を見下す。
「もう、アテナねえさまも。今日は一応、宴よ?」
「おまえは関係ないよ。黙っていなさい、アルテミス」
「あー! ひどーい、仲間はずれにするんだ!」
「おまえね。その台詞はいくらなんでもお子様すぎるんじゃないの?」
「兄様には、関係ないもん。黙っててよ」
「ちょっとちょっとちょっと。あたくしを無視しないで頂戴なあなたたち」
 ……事態はいつの間にか単なる兄弟喧嘩の域である。ひとり蚊帳の外で四名の口論を眺め、ゼウスはやれやれとため息をつく。
 なんともにぎやかな子供たちである。どうせ五割ほども本気ではないのだ。あまり互いに顔をあわせることのないかれらの、これは一種のスキンシップなのだとゼウスは理解している。
「まあ、なんにせよ」
 とうに癖となっている髭をしごく動作をしながら、神々の頂点たる天王ゼウスは満足げに微笑んだ。
「子供らに関して言えば、わしほどの幸せ者はそうおらんということだな」


「どうしてああなのかしらね、アテナねえさまとアフロディテ姉上って」
「相性の問題だろうがね。しかしなんだかんだ言って結構楽しんでるんだぜ、あれは」
「付き合ってるこっちは疲れるわようっ」
 "会議のふりをしたパーティ"が解散したころには、人間界はすっかり闇の中であった。連れ立って空を駆ける途で、二人の兄妹の話題は自然に先刻の会話に戻っていったが、やがてそれもそれも途切れがちになり、そのあとには短い沈黙が横たわった。
「……結婚、本当にする気ないの、兄様」
 ふとアルテミスが訊ねた。口調はさりげないが、緑色の瞳に真剣なきらめきを見てとって、アポロンは表情を改める。
「ないよ。少なくとも今のところはな」
「――そう」
 なにか言いかけて、しかし気が変わったのかアルテミスは口をつぐんだ。その白銀の頭をぽんぽんと叩き、アポロンは兄らしい笑みを浮かべる。
「安心しなさい。兄ちゃんは手のかかる妹を無事に結婚させるまで自分のことはいいのだよっ」
「馬鹿ね。そんなの永劫に無理に決まってるじゃない」
 頭上の手を払いのけて、くすくすとアルテミスが笑う。
 足元の闇を割って、アポロンの住居であるデルフォイの神殿が姿を現した。じゃあまた、と妹に手を振り、アポロンは地上へと降下していった。
「…………」
 数秒そこに佇んだのち、アルテミスはすっと身を翻した。華奢なその姿は、瞬く間にぬばたまの闇に吸い込まれて消えた。
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