Century20 CARD IX ―わたしの魔法使い―


 魔法使いの存在って、信じる?
 私は信じる。きっと子供みたいと言われるのだろうから、誰にも言いはしないけど。
 だって私は、会ったのだ。ほんものの魔法使いに。


  *


 振り返ったのはその声のせいだった。
「朔」
 ほんのひとこと名を呼んだだけの、その声。男の子にしては少し高くて、落ち着いた、どこか不思議な響きの声音に、懐かしくて懐かしくて心臓が跳ねた。覚えてるなんて自分でも驚いたけれど、記憶に間違いがないことは声の主を見ればあきらかだった。
 きれいなきれいな男の子。長いさらさらの黒い髪、すらりとした細身、ぞくっとするくらいに整った顔立ち。
 隣に立つ背の高い子に笑いかける笑顔まで、変わってない。なにもかも。
 私がまじまじと見つめすぎたんだろう、彼がこちらに視線を向けた。どきりとして、それでも視線をそらせなかった私に、彼は微笑んで、立てた人差し指を唇にそっとあてる。
 ハイティーンの見かけにそぐわない、大人びた気障な仕草。
 ――うん。
 私は頷いて、静かに目をそらした。
(秘密だよ)
 忘れられなかったあの声が、耳元で囁いたような気がした。ううん、本当に彼はそうしたのかもしれない。
 なにしろ彼は、私がこの世の中で知っているたったひとりの、ほんものの魔法使いだから。


  *


 あらためて記憶をたどってみれば、あれからもう二十年も過ぎていた。あのとき小学校に入ったばかりだった私も、いまやアラサーってやつだ。
 彼は変わらない。
 出会ったときも、今日も、まるきり変わらない少年の姿のままだ。


 その日私は公園でひとりで遊んでいた。仲の良い友達が習い事があるからと早めに帰宅して、遊び足りなかった私だけが残った。小学校に上がり、ようやく親の監視下でなく遊ぶ権利を貰ったのが嬉しくて、帰宅の音楽が流れるまで公園から帰らないような子供だった。
「あーそーぼ」
 そんな私に声を掛けてきた子がいた。年頃はおなじくらい。見たことのない顔だったけどあまり人見知りのしないたちだった私は二つ返事で受け入れて、鉄棒やブランコや縄跳びに興じた。にこにこと人懐っこい子で、とっても楽しくて。
 夕焼け小焼けがスピーカーから流れたことがとても残念だった。
 明日も遊べる? そう聞く前に、その子が言った。
「帰っちゃだめ。まだ遊ぶの」
 私もそうしたかったけど、門限に遅れたら怒られるのもいやで首を振った。なにしろ母はなかなか厳しくて、次の日のおやつを抜かれてしまうのだ。
「もう時間だもん。明日また遊ぼうよ」
「やだ。まだ遊ぶの」
「でも」
「だめ。帰らないで」
 ぎゅっと手を掴まれて、困った私はその手を振り払おうとした。でもその手の力は強くて、どうしても振り払えない。
「だって、帰らなきゃ」
「だめ」
「おかあさんに怒られちゃうよう」
「だめ。だめ」
 苛立った私はかなり乱暴に手を引いたけれど、ちっともその手は離れなくて、それどころかぺったりと肌に張りついたようで、ぞっと怖くなった。
「やだ。離して! 帰るの!!」
 叫んで、腕をめちゃくちゃに振って、走って逃げようともして、それでも手が全然離れない。だめ、だめ、帰らないで、そればかり無表情に繰り返すその子の目が、まんまるくて。
「やだーっ!」
 大声で泣き出そうとした――
 そのとき、空から人が降ってきた。
「はい、そこまで」
 スタンッってきれいに降り立った人の背中で長い髪がふわりと待って、だから最初女の人だと思ったんけど、声を聞くと違った。
 そのひとが女の子の手を無造作に掴んで、そうしたらそれまでどうしても引きはがせなかったのが嘘みたいに、するりと手が離れていった。理由はちっとも分からなかったけど、とにかく離れたことに安心して私は女の子から距離をとった。
「いやー!」
 女の子が叫んだ。子供の高い声に、潰れた低い声が重なってるようなおかしな声だった。
 いや、いや、いや、だめ、だめ、だめ! 地団駄を踏んで、私のほうに手を伸ばして、そのくせその場から一歩も動けないらしかった。
「だめだよ。人間の子供は、もう帰る時間」
「あそぶの! まだあそぶの!」
「わがままを言わない」
 男の人が手を伸ばして、女の子の頭にぽんと乗せた。その瞬間にビクッて女の子が全身を痙攣させて、硬直したみたいにその場に立ち尽くす。
「楽しかったんだな。わかるけど、もう寝なさい」
 するすると手が頭を撫でて、肩に触れて――
 ぐにゃり。
 女の子の輪郭が崩れた。
 髪も肌も水色のスカートもピンクのTシャツも全部、ぐずぐずになって混じり合って、どろどろした紫色のかたまりになってしまった。
 なにこれ。
 なにこれ。
 私はただ呆然とその様子を見つめていた。なにが起きているのか、さっぱりわからなかった。
 男の人はその紫色のかたまりを両手ですくい上げると、粘土をこねるみたいにぐにぐにといじってから、ふっと唇を近づけた。唇が触れた瞬間、濁ったような色合いがぱあっと透明度を増して、薄くひらひらとしたものがたくさん出てきて、
「お花……?」
「そうだよ」
 綺麗な花になったかたまりを手にしたまま、男の人が私のほうを見て笑った。花よりもそのほほえみのほうがもっと綺麗で、私はぽうっと見とれた。怖い目に遭ったばかりだったけれど、怖かったことより、この綺麗なひとと、不思議な現象への興味のほうが勝った。
 とことこと歩み寄って、手の中を覗き込む。たくさんの四角い花弁のある紫の花。見覚えがあった。その色も、形も。
「あじさい?」
「詳しいね」
「引っ越す前のおうちにあったの」
「なるほど。それでかな」
 納得したように頷くと、男の人はぐるりと公園を見渡して、隅のほうへ歩いて行った。剥き出しの土のあるところに、そっとその花を置く。
 なにかよく分からない言葉を男の人が唱えると、花はすうっと消えた。
「……いまの、なに?」
「魔法だよ」
「魔法使いなの?」
「そう。内緒だけどね」
 にっこりと笑って男の人――魔法使いは人差し指を唇に当てる。ぱちりとウィンクをされて、どきりとした。まるで大人扱いみたい。
「怖かったと思うけど、花の精はいたずらで寂しがりなだけだ。そのうちここに花が咲くから、よければ可愛がってあげて。きみのことがとても好きみたいだからね」
「うん」
 こっくりと頷くと、いい子だ、と魔法使いは頭を撫でてくれた。
「さあ、もう家へお帰り」
 言われて、あっ、と声を上げた。夕焼け小焼けはとっくに鳴り終わっている。急いで帰らなければ大目玉だ。
「これは、お守り」
 細長いカードを一枚貰った。不思議なタッチの綺麗な絵が描かれている。ずるずるとした長い服を着て、右手を上げた人の絵。どこか魔法使いに似た面影。
 私はそのカードを丁寧にポケットにしまうと、家に向かって駆けだした。
「ありがとう! ばいばい、魔法使いさん」
 途中で一度振り返って手を振ると、魔法使いは笑って、手を振り返してくれた。

 ――それが私の、魔法使いの記憶。

 公園のその場所には、翌日には紫陽花の茂みができていた。こんもりとしたその形は、以前住んでいたアパートにあったものとそっくりで、なのに誰も驚かなかった。まるで以前からそこにあったもののように。
 緑色をしたつぼみは一週間で咲いて、私は彼の手の中にあった紫の花に再会した。
「……あーそーぼ」
 こっそりと話しかけると、寂しがりで人なつこいその花は、風もないのにふわりと揺れた。
 魔法使いは寂しくないのかしら。ふとそんなことを思った理由はわからない。あのきれいなきれいな魔法使いが、世界でひとりきりに見えたからかも知れなかった。


  *


 あの日、年上の男の人だった魔法使いは、いまの私の目には若くて綺麗な男の子だ。
 当時ハイティーンだった男の子の容姿が二十年経ってもまるきり変わらないなんて普通ありえない。だけど見間違いだとも、他人のそら似だとも思えなかった。彼は、彼だ。
 年を取らなくたって不思議じゃない、だってあのひとは魔法使いなんだもの。


 駅に近づいて、ポケットを探った。取り出した定期入れに――
「あ」
 いつのまにか挟まっていた一枚の古びたカード。あの日彼がくれた「お守り」。
 持ち帰って大事にしまいこんで――どこにしまい込んだんだっけ? もうずっと目にしていないそれが、あたりまえのような顔をしてそこにあった。
 タロットカードというのだと、いまの私は知っている。ギリシア数字の1、THE MAGICIANの文字。子供の私には読めなかった、単純な英単語だ。
 マジシャン。魔術師。魔法使い。ほらやっぱり、彼だった。
 懐かしく眺めていたら、ゆらりと絵が動いた。こちらを向いていた男性の向きが変わる。暗い山頂、手にしていた短い杖のかわりにランプが現れる。
 数字は9。変わった文字は、THE HERMIT。少しだけ知ってる、このランプは導きの光だ。
 絵の中の老いた横顔はそれでもやっぱり、どこか彼に似ていた。

 振り返ったけれど、もう魔法使いはどこにもいなかった。ただ笑い声だけが、風に乗ってかすかに耳に届いた。



 家に帰る前に、公園に寄っていこう。きっとあの花はきれいに咲いて、私のことを待っている。
 教えてあげようね。あのひと、ひとりじゃなかったよ。隣にいる男の子に笑ってたよ。


  *


 魔法使いの存在って、信じる?
 私はさっき、会いました。



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